ふるさとだより


ゾウのはな子

左の桜は本日の当園の桜。右は昨日の東京の総武線から外堀の桜をガラス越しに撮影したものです。この桜の時期になると、思い出す絵本があります。上野動物園での実話『かわいそうなぞう』です。

以下は、多摩動物公園主任飼育員の山川宏治氏の記事(2007年)があったので、紹介します。

「 武蔵野の面影を残す雑木林に囲まれた東京・井の頭自然文化園に、今年還暦を迎えるおばあちゃんゾウがいます。
彼女の名前は「はな子」。私が生まれる以前の昭和24年に、戦後初めてのゾウとして日本にやってきました。
当時まだ2歳半、体重も1トンにも満たない小さくかわいい彼女は、子どもたちの大歓声で迎えられました。
遠い南の国、タイからやって来たはな子はたちまち上野動物園のアイドルとなりました。
ところが、引っ越し先の井の頭自然文化園で、はな子は思いがけない事故を起こします。
深夜、酔ってゾウ舎に忍び込んだ男性を、その数年後には飼育員を、踏み殺してしまったのです。
「殺人ゾウ」──。
皆からそう呼ばれるようになったはな子は、暗いゾウ舎に4つの足を鎖で繋がれ、身動きひとつ取れなくなりました。
餌をほとんど口にしなくなり、背骨や肋骨が露になるほど身体は痩せこけ、かわいく優しかった目は人間不信でギラギラしたものに変わってしまいました。
飼育員の間でも人を殺したゾウの世話を希望する者は誰もいなくなりました。
空席になっていたはな子の飼育係に、当時多摩動物公園で子ゾウを担当していた
私の父・山川清蔵が決まったのは昭和35年6月。それからはな子と父の30年間が始まりました。
「鼻の届くところに来てみろ、叩いてやるぞ!」
と睨みつけてくるはな子に怯むことなく、父はそれまでの経験と勘をもとに何度も考え抜いた結果、
着任して4日後には1か月以上繋がれていたはな子の鎖を外してしまうのです。
そこには「閉ざされた心をもう一度開いてあげたい」、「信頼されるにはまず、はな子を信頼しなければ」という気持ちがあったのでしょう。
父はいつもはな子のそばにいました。
出勤してまずゾウ舎に向かう。朝ご飯をたっぷりあげ、身体についた藁を払い、外へ出るおめかしをしてあげる。
それから兼任している他の動物たちの世話をし、休憩もとらずに、暇を見つけてはバナナやリンゴを手にゾウ舎へ足を運ぶ。話し掛け、触れる……。
「人殺し!」とお客さんに罵られた時も、その言葉に興奮するはな子にそっと寄り添い、はな子の楯になりました。
そんな父の思いが通じたのか、徐々に父の手を舐めるほど心を開き、元の体重に戻りつつありました。
ある日、若い頃の絶食と栄養失調が祟って歯が抜け落ち、はな子は餌を食べることができなくなりました。
自然界では歯がなくなることは死を意味します。
なんとか食べさせなければという、父の試行錯誤の毎日が始まりました。
どうしたら餌を食べてくれるだろうか……。
考えた結果、父はバナナやリンゴ、サツマイモなど100キロ近くの餌を細かく刻み、丸めたものをはな子に差し出しました。
それまで何も食べようとしなかったはな子は、喜んで口にしました。
食事は1日に4回。1回分の餌を刻むだけで何時間もかかります。
それを苦と思わず、いつでも必要とする時にそばにいた父に、はな子も心を許したのだと思います。
定年を迎えるまで、父の心はひと時も離れずはな子に寄り添ってきました。
自分の身体ががんという病に蝕まれていることにも気づかずに……。
はな子と別れた5年後に父は亡くなりました。後任への心遣い、はな子へのけじめだったのでしょう。
動物園を去ってから、父はあれだけ愛していたはな子に一度も会いに行きませんでした。
■亡き父と語り合う
思えば父の最期の5年間は、はな子の飼育に完全燃焼した後の余熱のような期間だったと思います。
飼育員としての父の人生は、はな子のためにあったと言っていいかもしれません。
残念なことに、私には父と一緒に遊んだ思い出がありません。
キャッチボールすらしたことがないのです。家にじっとしていることもなく、自分の子どもよりゾウと一緒にいる父に、「なんだ、この親父」と反感を持つこともありました。
ところが家庭を顧みずに働く父と同じ道は絶対に歩まないと思っていたはずの私が、気がつけば飼育員としての道を歩いています。
高校卒業後、都庁に入り動物園に配属になった私は、父が亡くなった後にあのはな子の担当になったのです。
それまでは父と比べられるのがいやで、父の話題を意識的に避けていた私でしたが、はな子と接していくうちにゾウの心、そして私の知らなかった父の姿に出会いました。 
人間との信頼関係が壊れ、敵意をむき出しにしたゾウに再び人間への信頼を取り戻す。
その難しい仕事のために、父はいつもはな子に寄り添い、愛情深く話し掛けていたのです。
だからこそ、はな子はこちらの働きかけに素直に応えてくれるようになったのだと思います。
一人息子とはほとんど話もせず、いったい何を考え、何を思って生きてきたのか、生前はさっぱり分かりませんでしたが、
はな子を通じて初めて亡き父と語り合えた気がします。
私は「父が心を開かせたはな子をもう1度スターに」と、お客様が直接おやつをあげるなど、
それまでタブーとされてきたはな子との触れ合いの機会を設けました。
父、そして私の見てきた本来の優しいはな子の姿を多くの方々に知ってほしかったのです。
人々の笑顔に包まれたはな子の姿を父にも見てほしいと思います。」

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