ふるさとだより


『中村久子先生の一生』

昭和43年、ヘレン・ケラーをして「私より不幸な人、そして偉大な人」と言わしめた1人の女性がその生涯を閉じました。女性の名前は中村久子先生。・・・晩年、執筆・講演・各施設慰問活動を通じて自らの生い立ちを語り、日本全国の身障者および健常者に大きな生きる力と光を与えた女性です。
 久子先生が突発性脱疽という難病で両手両足を失ったのはわずか3歳の時でした。7歳の時に父親を失い、9歳になった頃、それまで舐めるように久子先生を可愛がっていた母親は、一変して猛烈な教育を施すようになります。
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 手足のない子供に着物を与えて、 解いて見なさい、と言うのです。 どうして解くんですか、と聞くと 自分で考えておやりなさい、 と冷たく答えて取り合ってくれない。
 鋏の使い方を考えなさい、口で針に糸を通してごらんなさい、 そして、縫ってみなさい、と厳しく言いつける。
 できません、難しい、と泣いても喚いても母親は、振りむかない。
 みんな11歳の久子先生に工夫をさせて、 ヒントの1つも与えようとはしないのです。
 言いつけたことができないと、 ご飯を食べさせてくれない。
「人間は働くために生まれてきたのです。 できないとは何事ですか」 恐ろしい顔で叱る。
 おそらく母親は、心を鬼にしてこの難しい仕事をやらせたに違いありません。
 中村先生は母親のこの厳しい躾を恨みまして、当時の気持ちを、(自分は本当の子供ではないのではないか。
 あるいは貰い子ではあるまいか) と、深刻に疑ったことがあると、その自伝に述べています。
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必死の努力で、生地に唾をつけることなく、着物を仕上げることができるようになった久子先生。
やがて、自分のパンは自分で稼ぎ出すために自ら進んでわが身を見せ物小屋に売り、生活の糧を得ていきます。
その後、度重なる不幸を乗り越え、昭和36年10月、全国身体障害者の模範として昭和天皇に拝謁し、お言葉を賜った際、久子先生はこのように語られました。
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「私は若いときから今日まで、 お国から一円の福祉のお金も頂かなかったが、頂かなくてよかった。
 頂いていたら、今日、天皇陛下のお顔を 真直ぐに仰ぐことはできなかっただろう。
 天皇様は私を一人前の人間として扱って下さった。 今日は本当にいい一日だった。
  どんな人間にも生かされて行く道がある。 これからも、自分の力で生きていこう」
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人間の尊厳とは何か、努力を重ねるとはどういうことか。
久子先生の生涯は、精一杯、力強く生きることの意味を私たちに教えてくれます。

このCDの貸し出しをします。園のスタッフまで。

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