ふるさとだより


2013 年 10 月 30 日 水曜日

 事務室の前で園長が何やら組み立てているもの・・・。子ども達が、「これなあに?」の連発でした。

 これは雨水樽です。雨樋から雨水をためて、散水に使います。当園では、雨以外の月曜日~金曜日は、放射能対策で、草花のみならず、園庭全体をEM発酵液を添加して散水しているのです。

以前にも書いたのですが、EMを含む微生物(マイナスイオン)は、放射能の金属イオン(+)を取り込んでしまう性質があると言います。ですから、EMを園庭に散布することは効果があるのです。

節水の為にも、今後雨水を活用していければ…と思います。

 

2013 年 10 月 22 日 火曜日

ここ数年、パンの消費量がお米の消費量を超えてしまっています。和食を見直すために、
小泉武夫氏(東京農業大学名誉教授)の記事を紹介します。

≪私はずっと「食と民族」を研究テーマにしてきました。世界七十四か国を巡り民族の食を見てきましたが、
数十年という短期間に国民の食がガラッと転換したのは日本しかありません。
戦後日本人は伝統的な和食を稀薄化して欧米食へと転換し始めたのです。
その結果、どうなったのか。
生活習慣病の急増です。
かつて世界一の富裕国といわれた日本が大変な国債を抱えるようになったのも、税収の多くを一年で三十七兆円という
莫大な医療費に充てざるを得ない現実があるからなのです(2012年)。
食生活の変化は日本人を病に導いているだけでなく、国の財政まで圧迫していることを知らねばなりません。
戦後、日本人は低カロリー、低脂肪、低タンパクな食生活から、高カロリー、高タンパク、高脂肪の食生活へと変わり、
六十年前から比べると、油の消費量は約三・五倍、肉の消費量は約三倍になりました。
その象徴ともいうべき結果が、全国都道府県別平均寿命ランキングで明らかになりました。
かつてご長寿ナンバー1だった沖縄県は、いまや女性は三位、男性は三十位まで後退。
また、四十~六十代の死亡率が高く、二十~六十九歳までの男性の肥満者の割合も全国ワースト1という結果です。
一九四五年に米国施政下に入り、一九七二年の返還後も米軍基地は残されたまま。
それゆえ沖縄のライフスタイルがアメリカ化され、特に食生活では肉の摂取量が四十七都道府県でトップ、
逆に野菜は四十七都道府県で最も少ない結果報告がなされています。
 逆にここ数年、長寿県としてトップに立つのは長野県です。
五十年前の調査では全国下位だった同県は、歴代の知事がこれではいけないと健康改善に取り組んできました。
死亡率の一番の原因だった脳溢血と胃がんを減らすため、長年減塩運動を展開してきたのです。
しかし、さらに細かく調査してみると、昔ながらの和食を食べている家庭が多いことが分かりました。
単に減塩しただけでなく、やはり民族の伝統の食を守っていたからこそ、長寿になったといえるでしょう。
沖縄県と長野県──この二県の食生活と平均寿命の変化を見る時、伝統食の大切さがより伝わるのではないでしょうか。≫

2013 年 10 月 21 日 月曜日

もう25年も以前から、子どものアレルギーと視力低下は問題として取り上げられていました。(正木健雄氏著『子どものからだと心の危機』)TV等の電磁波や、農薬や殺虫剤が原因ではないか・・・ということでした。  そんな警告が出されていても、何も対策は講じられてこなかったと思います。視力が低下すれば眼鏡をかければいい・・・ではなくて、もっと幼児期から心がけていかなくてはならないと思います。

実は、就学前検診で、視力低下がとても気になった・・・ということを伺ったばかりなのです。これは大変と、ネットで少し見てみました。如何に紹介しますので、心がけができる事は実行した方がいいと思います。

⇒①一日の中でできるだけ遠くを見る時間を持つ。②TVやゲームは最小限に。また、携帯電話でメールをするときは、時々遠くを見たり視点をそらすようにする。③スポーツに親しむ。(子どもの頃からスポーツに親しむ人は、視力の良い人が多くいるそう。)④姿勢に注意する。悪い姿勢は視力を低下させる要因大。⑤メガネやコンタクトレンズは必要のないときは外すように。(頼り過ぎると目の本来の力が失われる)⑥TVを見るときは2.5m以上離れる(大画面を)近くで見るほど目は疲労しやすく、視力低下につながる。⑦目の体操を習慣にする。⑧よく笑うようにする。笑うと目の周りの筋肉が緩む。⑨ストレスを解消する。ストレスを抱えた状態で勉強や仕事をすると視力の低下につながる。⑩目に良い食品を摂る。ブルーベリーやカシス等?。⑪心理的な悩みを解消する。目は心の窓。悩みや不安は見え方に大きく影響する。子どもの視力低下には心身症の可能性もある。

2013 年 10 月 18 日 金曜日

感動した記事があったので紹介します。

≪「足なし禅師」と呼ばれた禅僧がいた。
小沢道雄師。大正9年生まれ。幼年期、曹洞宗の専門道場で修行。
20歳で召集を受け満州へ。昭和20年、25歳で敗戦。シベリアに抑留され強制労働。
 だが、肩に受けた銃創が悪化し、役立たずは不要とばかり無蓋(むがい)の貨車で,牡丹江の旧日本陸軍病院に後送される。

氷点下4、50度の酷寒に夏服のままで、支給された食料は黒パン1個、飲み水もままならず、
3日間を費やした行程で死者が続出した。
小沢師は死こそ免れたが、両足が凍傷に侵された。
膝から切断しなければ助からない。
その手術の担当軍医は内科医で外科手術はそれが初めて。麻酔薬もない。
メスを執った軍医がしばらく祈るように目を閉じた姿を見て、小沢師はこの軍医に切られるなら本望だと思い定めた。想像を絶する激痛。歯がギリギリ噛み合い、全身がギシッと軋(きし)んで硬直した。
すさまじい痛みは1か月余続いた。
8月に突然の帰国命令。歩けない者は担架に担がれ、牡丹江からハルビン、奉天を経てコロ島まで、
1,500kmを徒歩で行くことになった。
 だが、出発して3日目の朝、目を覚ますと周りには誰もいなかった。
満州の荒野に置き去りにされたのだ。あらん限りの大声で叫んだ。
折よく通りかかった北満から引き揚げ途中の開拓団に救われたのは、僥倖というほかはなかった。
 崖っぷちを辿るようにして奇跡的に帰国した小沢師は、福岡で再手術を受け、故郷相模原の病院に送られた。
母と弟が面会に来た。
「こんな体になって帰ってきました。 いっそのこと死のうと思いましたが、 帰ってきました」
言うと、母は膝までの包帯に包まれた脚を撫で、小さく言った。
「よう帰ってきたなあ」母と弟が帰ったあと、小沢師は毛布をかぶり、声を殺して泣いた。
懊悩の日は続いた。
気持ちはどうしても死に傾く。その果てに湧き上がってきた思いがあった。
比べるから苦しむのだ。比べる元は27年前に生まれたことにある。
27年前に生まれたことを止めて、今日生まれたことにしよう。
両足切断の姿で今日生まれたのだ。そうだ、本日たったいま誕生したのだ。
足がどんなに痛く、足がなく動けなくとも、痛いまんま、足がないまんま、動けないまんま、生まれてきたのだから、何も言うことなし。本日ただいま誕生!
深い深い覚悟である。
一、微笑を絶やさない
一、人の話を素直に聞こう
一、親切にしよう   
一、絶対に怒らない
小沢師はこの4つを心に決め、58年の生涯を貫いた。命の炎を燃やして生き抜いた足なし禅師の人生だった。≫

2013 年 10 月 17 日 木曜日

旧暦の9月13日で、新暦では10月の中旬~下旬にあたります。十五夜を「中秋の名月」と呼ぶのに対して、十三夜は「後の月(のちのつき)」「豆名月」「栗名月」ともいい、十五夜に次いで美しい月とされています。

一般に十五夜にお月見をしたら、必ず同じ場所で十三夜にもお月見をするものとされてきました。十五夜だけ鑑賞するのは「片月見」といって忌まれていたと言います。

今夜も見られるといいですね。

降園時には、調理担当スタッフが、ススキや、年中さんが作ってくれた団子13個、秋の果物などのお供えを、玄関前に用意してくれました。

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