ふるさとだより


2014 年 2 月 18 日 火曜日

先日のジャンプ男子ラージヒルで、史上最多の7度目の冬季五輪に出場され、みごと銀メダルを獲得した葛西紀明氏(41歳)選手の活躍は日本中が感動した出来事だったと思います。

葛西紀明氏は少年時代、お米も買えない、電話も引けないといった貧しい家庭で育ったそうです。
それでも大好きなジャンプを続けられたのは母のお陰。
苦労を掛けた母に金メダルを取って、家を建ててあげると約束し、厳しい練習を乗り越えてきたといいます。

そんなある日、実家が火事に遭い、母親が全身火傷を負い、手当ての甲斐なく亡くなってしまいます。
入院中は手も握れないひどい状態だったそうですが、痛みと死の恐怖に必死で闘いながら書かれた励ましの手紙。
そこには
「いまこの時を頑張れ。 絶対お前は世界一になれる。
 おまえがどん底から這いあがってくるのを楽しみに待っているよ」
という、母の深い思いが綴られていたそうです。
死後見つかったという日記に葛西選手は、
「今でも手紙を開くとポロポロと涙がでてくるんです。 大事な大会の前にはこの手紙を読み返します。
 見るたびにものすごく大きな力をもらえるんです」と話されていたそうです。

その強い思いでソチに臨み、個人で銀、団体で銅メダルを勝ち取った!感動!感動!感動!

2014 年 2 月 10 日 月曜日

ソチオリンピックが開幕し、熱戦が繰り広げられています。メダル候補の浅田真央選手を育てたコーチ、山田満知子(フィギュアスケートコーチ)さんの「伸びる人と伸びない人の差」とは──。という記事があったので紹介します。
 
≪はっきりいって、頭が悪いのはダメですね。学校の勉強じゃないですよ。
1を言って10を知るじゃないけど、コーチがいま何を考えているかとか、きょうは何を練習したらいいかとか、
こちらが何も言わなくても察することができる。そういう勘がいい子が伸びますね。
私の場合、チャンピオンにするとか、メダリストにするとか、実はそれほど興味がないんです。
うちに習いに来て、3しか能力がない子を、5とか7とかにすることはできても、もともと10の才能を持っている天才にはかなわない。
五輪に出てくる選手なんてみんな天才ですよ。
その天才たちがさらに天才的に努力をして、やっとメダルに手が届くかどうか。
そういう厳しい世界です。世界の頂点に立てるのは天才の中の超天才だけ。

たまたま(伊藤)みどりや(浅田)真央はなれましたけど、なれない人がほとんどなんですよ。
そりゃ私も2番より1番のほうがいいですよ。
でも、たとえ5番でも、みんなから
「あの子、いい子だったね」「あの人の演技って素敵だったね」
と言われるスケーターがいいなと私は思います。
だってジャネット・リンだって3位ですよ。誰も1位の人なんて覚えちゃいない(笑)。
彼女のスケートのいろいろなシーンに人間性が出て、それがいつまでも私たちの心に残っているんです。
だから私はジャンプができないとか、スピンが下手とか、そういうことではまず怒らない。
礼儀とか躾のほうが多いかな。
反抗期の時、生意気だったり、先生にプンみたいな態度でいる子には「ちょっと待ったぁ!」と。
「私はあなたより年上で、 しかも先生でしょう。 いまの受け答えはないでしょう」とはっきり言います。
要するに生き方の注意のほうが多いですね。
みどりはハートの強さと優しさが混ざった演技をするスケーターでしたし、
真央は素直で自然体の愛らしい演技をする子。
それってそのまま彼女たちの性格ですよ。人間性が全部スケートに出ているんですね。≫

人間性はスケートのみならず全てにおいてですよね。一昨日・昨日と、大雪に見舞われましたが、“雪かき”にも人間性が現れると思いました。ご近所同士の助け合いの精神、園の広~い駐車場を、お一人で専用の車両で雪かきをやって下さった、元保護者のKさん、その人間性に感服です!

2014 年 2 月 6 日 木曜日

パチャママ農園の“注文書”の新しいのを玄関に置いておきます。ご利用になる方はどうぞ。

食べ物は大事です。農薬や添加物をできるだけ控える必要があります。いろいろ気を付けていても、目に見えない電磁波の問題もあります。電磁波過敏症なる病(?)もあるようです。ドライヤー、電気毛布、電気カーペット、電磁調理器、電子レンジ、電気自動車・・・・便利なものは、必ず落とし穴があるものです。

2014 年 2 月 4 日 火曜日

ヘレンケラーが尊敬した人物・塙保己一についての感動文があったので、紹介します。

≪塙保己一は延享3(1746)年、武蔵国児玉郡保木野(現・埼玉県本庄市)に生まれた。
生家は裕福な農家だったが、5歳の時、思いがけない病魔に襲われる。目が次第に光を失っていったのだ。
母・きよは保己一を背負い、片道8キロの道を一日も欠かさず藤岡(現・群馬県藤岡市)の医師のもとに通い続けた。
なんとしても我が子の目を治したい一念だった。
しかし、保己一は7歳で完全に失明した。さらに、12歳で最愛の母が亡くなってしまう。
保己一は杖を頼りに毎日墓地に行き、母の墓石に向かって泣き続けた。
涙の中で一つの決意が生まれた。江戸に出て学問で身を立てよう。
保己一は耳にしたことはすべて記憶するほどの抜群の記憶力の持ち主だったのである。
保己一の情熱は父を動かした。絹商人に手を引かれ、保己一は江戸に旅立つ。15歳だった。
江戸時代、盲人の進む道は限られていた。
検校(けんぎょう)という役職者に率いられた盲人一座に入り、按摩(あんま)や鍼灸(しんきゅう)の修業をする、
琵琶や三味線の芸能に勤しむ、あるいは座頭金という金貸しの知識を学ぶ、などして世渡りの技能を身につけ、
互いに助け合って生活していく仕組みになっていた。
選べる職業はそれだけだった。
保己一もまた雨富須賀一検校の盲人一座に入門した。だが、保己一の望みは学問である。
悶々とした日々が続き、思い切って師匠の雨富検校に本心を明かす。
「私は学問がしたいのです」。破門覚悟の告白だった。
保己一の幸運はこの雨富検校に出会ったことだった。
「人間、本心からやりたいことに打ち込むのは結構なことだ」と検校はいい、学問することを許されたのである。保己一の目覚ましい研鑽が始まる。目が見えない保己一は誰かに本を読んでもらうしかない。
全身を耳にし、耳にしたことはすべて身につけていく。
盲目の身で学問に励む少年がいる、とたちまち江戸の町の評判になった。
 保己一の真剣な姿に多くの援護者が現れ、ついに当代随一と言われる国学者賀茂真淵の門人になることができた。半年後に真淵は亡くなるが、この半年に六国史などを読破、のちの偉業を築く土台となった。そして、群書類従の編纂を決意する。34歳。666冊、全530巻。ついに群書類従が完成したのは、保己一74歳。その2年後に死去。ヘレンケラーはこう言ったという。「小さいころ私は母に励まされた。日本には幼い時に失明し、点字もない時代に努力して学問を積み、一流の学者になった塙保己一という人がいた。あなたも塙先生を手本に頑張りなさい。」と。…≫   一度聞いたことはすべて身につけていく。・・・聞いたそばから忘れて行ってしまう私とは大違い!

  * * *

その後、保己一はいかにして
大学者への道を切り拓いていくのか。

その人生からいまを生きる私たちが
学ぶべきものとは──。


  • このページの一番上へ