ふるさとだより


2014 年 4 月 30 日 水曜日

昨日は昭和の日でした。昭和天皇に思いを馳せながら、昭和天皇一代の料理番として仕えられた谷部金次郎氏の記事を、ご紹介させていただきます。
≪「昭和天皇に仕えた最後の料理番」
 「ぼうやいくつだ、 どのくらいできるんだい?」
――東京オリンピックが開かれた昭和39年の初春、天皇の料理番として有名な、秋山徳蔵さんのこんな第一声で
宮内庁大膳課の面接が始まりました。
当時、私は17歳。
『日銀クラブ』と呼ばれた超高級料亭の料理長でもある厳しい義兄の下で、料理人への道を歩んでいました。
そこでの修業は、新人といえどもただ単にお皿を洗っていればいいというものではなく、 
出汁をとることから魚を下ろすことまで、なんでもやらなくてはなりませんでした。
修業期間は一年半と短かったものの、
普通に料理の勉強をしている人に負けないだけの自信を私は持っていました。
毎年暮れに、宮内庁の新年祝賀会のお手伝いに出向いていたことがきっかけになり、
「宮内庁の大膳課に欠員ができた、若い料理人を探している」と私に声が掛かりました。
どうせ宮内庁職員の食堂だろう。 私は、着慣れないスーツを揃え、宮内庁へ赴きました。
何の連絡もないまま、いつのまにか季節は梅雨になっていました。
半ば諦めかけた頃、宮内庁から採用の通知が届きました。
昭和天皇の食事を作る大膳課和食担当の辞令。
「天皇陛下のお食事なんだから豪華なものに違いない」
「腕によりをかけて勉強して、いい料理をいっぱい作ろう」と意気込んで大膳課に入りました。
ところが、驚いたことにお食事の献立はごくごく一般的な、本当にシンプルなものばかりでした。
大根と白滝を油でさっと炒めて煮た物やほうれん草のおひたしなど、ありふれたお惣菜が中心で、
それはむしろ一般家庭と比べても地味なくらいでした。
食器もいたって質素でした。
「こんな普通のものを作りに来たんじゃない」といささか拍子抜けしたほどです。
料理人として陛下にお会いできる機会はまずありません。
いつも女官さんを通して陛下の感想が私に伝えられました。
ただ、陛下にお仕えした26年間の中で1度だけ直接お目にかかることができました。
菊栄親睦会という、皇族と旧皇族の方々による年に1回の催しの席でのことです。
その頃、私は大膳課に入って5、6年が経っており、陛下のお食事も作り始めていました。
立食形式のそのパーティーで、私は天ぷらの係になりました。
黙々と天ぷらを揚げていると目の前に陛下がお立ちになっていました。
この時初めて陛下に直接こうお声を掛けられました。
「穴子としそを」 「はい、かしこまりました」そう返事はしたものの、頭の中は真っ白。
緊張して手は硬直し、小刻みに震えて、穴子としそがうまく箸で掴めません。
どうにか揚げなくては、と震える右手をおさえるように左手を添えながら、なんとか油の鍋に入れました。
ところが、衣と葉がバラバラになってしまい、見る影もありませんでした。
それでも陛下は天ぷらの出来栄えを気にするご様子もなく、喜んで召し上がってくださいました。
その時、私はその場に倒れそうなくらい力が抜けていました。
戦後生まれの私は、正直なところそれまで陛下を特別な存在と思ったことはありませんでした。
ところがこの日、陛下の穏やかながら威厳のあるお姿に接し、自分はなんと小さい存在なんだと圧倒されそうになったのです。
「生涯この方おひとりのためにお仕えしよう」と誓ったのはこの時です。
陛下は、思いやりに溢れたお方でした。
 例えば人から物をいただかれた時には贈り主の心を無駄にしないような扱い方をなさり、
常に相手の立場に立ってものごとをお考えになっていました。
お食事に関してもご自身のお言葉の影響力を分かっていらっしゃったので、
食べたい物もお言葉にはされませんでした。
 しかし、おいしい時は必ず「おいしかった」と伝えてくださり、一度箸をつけた料理は残さずきちんとお召し上がりになるなど、私たち料理人にも細かい心配りをされていました。
私は、そんな陛下の豊かな人間性にますます惹かれていました。
陛下が倒れられたのは、昭和63年。お食事を吹上御所までお運びした数時間後のことでした。
この時のショックはいまも忘れられません。
陛下が最後に口にされた料理はどのような献立だったのか、いまでも思い出せないくらいです。
それからも陛下のご様態は一向にいい方向には向かわず、大膳課も最悪の事態に備えていました。
 昭和64年1月7日早朝、ついにその時が来ました。
せめて最後のお別れのご挨拶をしたいと、女官さんの後をついて行き、
御簾の向こう側で永遠の眠りにつかれた陛下に深々と頭を下げました。
私の料理に「おいしかったよ」と言ってくださる陛下には2度と会えないと思うと、魂が抜けていくような気がしました。

御大葬が終わり、私は次の行き先も決まらぬまま、大膳課を辞める申し出をしました。
子どもたちはまだ5歳と3歳、家を買ったばかりでローンもだいぶ先まで残ったまま。
しかし、自分がお仕えするのは昭和天皇おひとりのみという私の意志は、決して揺るがなかったのです。
大膳課を辞めた私は、テレビ番組や自宅、大学で料理を教えるようになりました。
仕事は変わっても、おもてなしの心が料理を作る上での原点であるという思いは変わりません。
陛下から学んだ思いやりの心を多くの人に伝えることが、いまの私の使命と思っています。≫

2014 年 4 月 28 日 月曜日

「人生で大切な心構え」として鈴木秀子(文学博士)氏の記事があったので紹介します。

≪人生にはバイオリズムがありますから、波が下降している時は疲れが溜まったり、病気をしたり、
周囲に思わぬ出来事が起きたり、物をなくしたり、大切なことを忘れたり、いろいろなことが起きがちです。
そうすると自分や他人を責めたり、ゴミのような感情が湧き上がってきたりします。
そういう時は無理に自分を変えようとしないこと。
「ああ、いま自分にはこういう 感情が起きているんだな」
とまるで人ごとのように心を静かに眺め、じっと堪え忍びながら上昇の時を待つ訓練をすることです。
そのことに関連した話を最後にご紹介します。

香港に住んでいるインド人の女性が実際に体験した出来事です。
この女性は末期がんに侵され、息も絶え絶えの状態でいわゆる臨死体験をしました。
肉体を離れて自分が寝ている姿を空中から眺め、やがて自分のすべてを受け入れてくれる
温かい光に包まれ、至福感を味わいます。
その時に、自分がなぜがんになったかがはっきりと分かったというのです。
インドはとても競争の激しい社会です。
彼女は自分の正直な心をいつも押し殺して人からよく見られたい、人の上に立ちたい、
出世競争を勝ち抜きたいという思いだけで駆け上がってきていました。
臨死体験をとおして、そういう自分の生き方を振り返るとともに、即物的な生き方がストレスとなり、
ストレスがいつしかがんに形を変えていったことが、理屈抜きに理解できたといいます。
臨死体験後、信じられないようなことが起きました。
彼女の体から奇跡的にがんが消え去っていったのです。
驚いた医者がそれを学会で発表した記録も残っています。
やせ細った体が少しずつ体力を取り戻していよいよ退院となった時、彼女はこれまでのような金儲け主義の生き方、物や地位だけを追い求める生き方を捨て去ろうと固く決意しました。
そして香港に移住。
質素ながら自分らしさを発揮できる仕事を探して、現在はご主人と二人、静かに生活しています。
その彼女がこのように言っています。
「人生で大切なのは、本当に自分らしく生きることと、 何事にも喜び楽しんでいられることです。
 あなたが機嫌よくしていさえすれば、それが何よりの社会貢献。
 あなたの周りにいる人をみな機嫌よく、気持ちよくできたら、こんな素晴らしいことが他にあるでしょうか
そして彼女は「そのためには、 いつも正直でいることです」と言葉を続けています。
余計なゴミを取り除いて幸せに生きる秘訣を彼女は自らの体験をとおして私たちに教えてくれているのです。
いつも機嫌よく、しかも自分らしく正直に生きることができたら、心にゴミが溜まることもなくなるでしょう。
自分を機嫌よくするのは自分自身です。
誰かが機嫌よくさせてくれるわけではありません。
これまで外界に向けていたエネルギーを少し自分を機嫌よくするために使ってみてください。
人生はもっと豊かなものになるでしょう。
日々出合う一つひとつの出来事に深い意味があることを知ったら、どんな些細なことも喜びに変わります。
生かされている命の素晴らしさを感じ、喜びが心の内から湧き出る時、私たちは意識せずとも上機嫌で生きられるはずです。≫

2014 年 4 月 25 日 金曜日

 “詩がたり”の 大阪在住の里みちこさんから電話をいただきました。 東京やつくばで、11月と2月に“詩語り会”に呼んでいただいていましたが、夫のことがあって2度ともいけないでいましたが、里さんは「心の出席ね!」と言ってくださっていました。

今日は、「少しは落ち着いた頃かしら・・・・」と、まだ1回しかお会いしたことがないのに、心にかけて下さってお電話をくださったのです。…感動してしまいました。

日が経つにつれて落ち着いてくるだろうと思っていましたが、まだまだ・・・です。

里さん曰く、いっぱい悲しみを経験した方がいいし、そうすると、般若心経もストンと腑に落ちるようになるわよ・・と。 10年近く前にこの『生きて死ぬ智慧』を購入しましたが、あまりピンときませんでした。(今日は、読んでみたいと思ったら、なんとすぐ目につ個所にあったのです。少し前に気になっていて読んでみようと思った時は見つからなかったのに。)でも今日は、頭ではなく感覚で読むことができるようになった感じがします。悲しみを体験した甲斐があったかもしれません。里さんが、里さん流の“般若心経”を心訳されているそうなので、是非読んでみたいと思いました。里さん、ありがとうございました。

2014 年 4 月 24 日 木曜日

「働く女性のハンディといかに向き合うか」
岩井希久子(絵画保存修復家)氏の記事を紹介します。
≪ ──ご家庭との両立はいかがでしたか。
私は古いタイプの考え方で、やはり女性は家事もすべてちゃんとやらなければいけないと思っていました。
結婚して移り住んだ千葉県の佐倉から研究所までは片道2時間半ちかくかかりましたが、
帰ってから手を抜くことなく家事もやっていました。
また、出張の時は子供が病気でも預けて仕事に出かけなければなりませんでした。
ずっと一所懸命やっていましたが、それができたのは、家族や、いろいろな方々の協力と助けがあったからで、決して私一人の力ではありません。それはいまでも感謝しています。
バブル期で作品もよく売れていた時期でしたから、
修復も凄く急かされて毎週必死で仕上げては納品していました。
ですから仕事は忙しいし、家のこともちゃんとしなければいけないというプレッシャーで、悪夢をよく見ました。
歯がどんどん抜けていくのです。
──仕事をやめたいとは思われなかったのですか。
それはありませんでした。
仕事をしている以上、責任がありますし、自立したプロでありたいという思いが強かったものですから、
やめるなんてこれっぽっちも頭をよぎりませんでした。
──どう切り抜けられたのですか。
うーん、難しいですね。ただ、一つ大きな転機になったのは、自分の考え方を変えたことです。
全部完ぺきにしなければいけないと思っても、できない、できないってどんどん苦しくなるばかりでしたから。
だけど、自分はこれだけ責任ある仕事をやっているのだから、家のことが100%できないのは当たり前なんだと。
悩んだ結果、そう考えるようにしました。
ただ、そのしわ寄せは全部家族に行ってしまったわけですが……。
子供たちの描く絵には、いつも涙が描いてありました。
随分寂しい思いをさせてきました。
──仕事と家庭との狭間で苦悩を。
ただ、女性であることや子供がいることのハンディは、仕事の相手には見せないように努めていました。
特に私はフリーでしたから、そのために仕事が滞ったら次から依頼がなくなるかもしれない。
男性と比較されても質的にも上回っているくらいの仕事をこなさなければ、という思いでした。
だから仕事には絶対に穴を空けたくない。
足を骨折した時も車椅子で仕事に行きましたし、子供を産む時も本当にギリギリまで仕事をしました。
2人目の子を妊娠していた時には、仕事中に破水して、双子のうちの1人を流産してしまう
という悲しいこともありました。
──女性ゆえにたくさんの逆境に直面されてきたのですね。
逆境だとは全然思っていません。
なってしまったことはしょうがないから、その都度どうしたら克服できるかと考えるのです。
ただ流産した時はさすがに辛かったですね。でも、これも何かの思し召しと受け止めるしかない。
マイナスと思えることがあればどうしたらいいかと考えるから、
それが次のステップに繋がってプラスになるんです、必ずね。
そうして乗り越えるから成長できる。人生はそういうものなのかなって思います。≫

2014 年 4 月 23 日 水曜日

 毎月2回の設定で、保護者(4名限定)と事務室で昼食を摂っていただく、通称“ドラゴン亭”を実施しています。本日が2回目でした。4月は、新学期が始まったばかりでお母さん方もバタバタしているせいか、申込が少なく、スタッフが前日にあわててお声をかけさせていただく・・・ような状態でした。

当方も早めに翌月の日にちを配信メールさせていただきますので、どうぞお時間を作っていらして下さい。12時~13時の1時間です。新しい出会いや発見がありますよ!

なかなかお母さんがいらっしゃれないという方もいらっしゃいますので、そういう方にはおじいちゃん・おばあちゃんに出て頂いております。5月は14日(水)と23日(金)を予定しています。ご来園をお待ちしております。

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