ふるさとだより


2014 年 6 月 30 日 月曜日

 昨日の日曜日は朝から土砂降りの雨でした。早朝5時半頃から「流鏑馬は予定通り実施しますか?」の電話が15本ははいったでしょうか・・・。それもそのはず、馬場があまりぬかっている状態ですとうまく走らせることができないのです。

しかし、八幡宮の神様は雨を止ませてくれたばかりか、太陽さえも顔を出してくださいました。神社の職員は馬場に砂を足したり、忙しくしていましたが、大勢の見物人で賑わいました。野点や草花の無料配布のテントも大盛況でした。“大宝花の会”やボランティアの皆様お疲れ様でした。

昨日は、昼と夕方の2回、NHKニュースでアジサイが放映されたとあって、本日も鳥居の前のお団子屋さんの駐車場は車が一杯でした。先代の宮司や神様に見守られている感じがしました。今日は夕方7時から大祓祭です。

2014 年 6 月 27 日 金曜日

大宝八幡宮の紫陽花が見ごろを迎えています。拝殿と本殿を横目に奥へ入っていくと、祖霊殿がありますが、そこから20mほど北へ進むと、坂があります。その坂を下りたところからがメインの紫陽花神苑となります。そこはかなり広いスペースで、マイナスイオンたっぷりの癒しの空間になっています(300種、4000株の紫陽花)。そして、来る29日(日)は、紫陽花祭のメインイベントの日です。野点が写真にあるテントで催され、その隣では草花の抽選会も行われます。これは、はずれくじナシです。流鏑馬神事は、大宝小学校の南側の馬場で行われます。10時からご祈祷をしてからなので、実際の的当ては10時半ごろからでしょうか。雨が降らないことを祈ります。これらの紫陽花は、“大宝花の会”の方々によって手入れされています。

又、拝殿前には写真のような茅の輪が設置されています。6月30日と12月31日の年に2回、半年ずつの罪穢れ(つみ・けがれ)をお祓いする行事があります。参拝の際には是非くぐってみて下さい。くぐり方は、説明書きがすぐわかるところにあります。

2014 年 6 月 19 日 木曜日

今日は“食育の日”で、お味見タイムのある日でした。毎月19日は、お迎えの時間に写真のような小分けの容器に人気メニューなどを保護者の皆さんに試食して頂いています。

これは何だと思いますか?

実は大豆なのです。しかも、節分で残ったお豆です(神社で残ったもの)。去年まで残り豆は“きな粉”に化けていましたが、今年はきな粉に挽いてもらえなくなってしまったので、栄養士が考えた末のメニューです。黒糖と抹茶粉末で絡めてあるので、歯ごたえも良く、食べやすいし指先も使うので、一石三鳥です。

2014 年 6 月 18 日 水曜日

昨日の夕方と、今日の昼ごろにこの近辺だけの集中豪雨がありました。短時間に集中した為、雨水がはけません。園庭はプールのような状態に・・・。(遊んでいる途中からはけてきましたが・・・。)水たまりが多い状態ですが、園庭で遊ばせたい・・という以上児(3~5歳児)担任の提案で、食後に園庭に。出られた子ども達は大喜び。裸足で思い切り発散できたようです。それにしてもすごい雨でした!

2014 年 6 月 16 日 月曜日

昨日は父の日。人の出会いは一期一会であり、今を完全に燃焼し尽くした生き方ができたらいいと思います。
こんなすさまじい生き方をした1人の若者がいることを教えてくれた記事がありましたので、以下に紹介します。

“今から30数年前の1月21日、富山県の砺波(となみ)という町で、ガンで亡くなった井村和清さんである。
彼は医師であったが、右膝に巣くった悪性腫瘍の転移を防ぐため、右脚を切断した。
しかし、その甲斐もなく、腫瘍は両肺に転移していた。そして昭和54年1月、亡くなったのである。
享年31歳であった。
彼は医師であったから、自分の病状をよく知っていた。だから彼には明日はなかった。
その彼が遺書を残している。
その遺書は『ありがとう、みなさん』と題されている。
彼は2人の子供に「心の優しい、思いやりのある子に育ってほしい」と書き、
「私は今、熱がある。咳きこんで苦しい。 私はあと、いくらもお前たちのそばにいてあげることができない。
 だから、お前たちが倒れても手を貸してあげることができない。 お前たちは倒れても倒れても自分の力で立ち上がるんだ。 お前たちがいつまでも、いつまでも、幸せでありますように。 雪の降る夜に父より」
そしてまた彼は、こんな遺書も残していた。
「ようやくパパと言えるように なった娘と、まだお腹にいる二人目の子供のことを思うとき、胸が砕けそうになります。這ってでももう1度と思うのです。しかし、これは私の力では、どうすることもできない。
 肺への転移を知った時に覚悟はしていたものの、私の背中は一瞬凍りました。
 その転移巣はひとつやふたつではないのです。レントゲン室を出るとき、私は決心していました。
 歩けるところまで歩いていこう。
 その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を置きながら、私は不思議な光景を見ていました。
 世の中がとても明るいのです。
 スーパーへ来る買い物客が輝いてみえる。走りまわる子供たちが輝いてみえる。
 犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が輝いてみえるのです。
 アパートへ戻ってみた妻もまた、手をあわせたいほど尊くみえました」
 「郷里へ戻ると父が毎朝、近くの神社へ私のために参拝してくれていることを知りました。
 友人のひとりは、山深い所にある泉の水を汲み、長い道程を担いできてくれました。
 『これは霊泉の水で、どんな病気にでも効くと言われている。俺はおまえに何もしてやれなくて悲しいので、
 おまえは笑うかもしれないが、これを担いできた』
 彼はそう言って、1斗(18リットル)以上もありそうな量の水を置いてゆきました。
 また私が咳きこみ、苦しそうにしていると、何も分からぬ娘までが、私の背中をさすりに来てくれるのです。
 みんなが私の荷物を担ぎあげてくれている ありがたいことだと感謝せずにはいられません。
 皆さん、どうもありがとう。
 這ってでももう1度戻って、残してきた仕事をしたいと願う気持ちは強いのですが、
 咳きこむたびに咽喉をふるわせて出てくる血液を見ていますと、もはやこれまでか、との心境にもなります。
 どうも、ありがとう。」
 日一日と悪化する病気に、もう猶予はできない。
 ここまでくれば、いつ机に向かうことができなくなるかもしれない。
 とにかく『あとがき』を書くことにした。
 「頼みがあります。 もし私が死にましたら、残るふたりの子供たちを、 どうかよろしくお願い致します。
 私が自分の命の限界を知ったとき、私にはまだ飛鳥ひとりしか子供はありませんでした。
 そのとき、私はなんとしても、もうひとり子供が 欲しいと思ったのです。
 それは希望というよりは、むしろ祈りのようなものでした。
 祈りは通じ、ふたりめの子供が妻の胎内に宿ったのです。
  妻はこれはあなたの執念の子ね、と言って笑いましたが、私はどうしても、妻と飛鳥を、母ひとり子ひとりに
 したくなかったのです。
 3人が力を合わせれば、たとえ私がいなくても、生きぬいてゆける。
 妻がもし艱難に出逢うことがあっても、子供たちふたりが心を合わせれば、細い体の妻をきっと助けてくれる。
 そう信じています」
 そして、彼の死後、「誰よりも悲しむであろう父母を慰めてやって下さい」と頼み、
 「ありがとう、みなさん。世の中で死ぬまえにこれだけ言いたいことを言い、
 それを聞いてもらえる人は滅多にいません。 その点、私は幸せです。 ありがとう、みなさん。
 人の心はいいものですね。 思いやりと思いやり。
 それらが重なりあう波間に、 私は幸福に漂い、眠りにつこうとしています。 幸せです。
 ありがとう、みなさん、 ほんとうに、ありがとう」
 1人の若者が生きることの大事さを教えてくれた生の記録である。
 彼は最後の最後まで、人間万歳を歌いあげたのである。
 最後の最後まで「ありがとう」をいい続けたのである。
 生きるということは1度しかない。リハーサルなんかありはしない。たった1度だけである。
 どうか、この「生きる」ことを大事に大事に生き抜いていただきたい。”

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