ふるさとだより


苦があるからこそ楽がある

いまから70年前、昭和19年8月22日に学童疎開船「対馬丸」が米軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没。
乗船者1661名のうち、1508名もの方々が命を落とした・・・という大惨事がありました。
数少ない生き残りの一人、マリア宮城さんが語った「極限を生き抜く心得」の記事があったので紹介します。
 「苦の後に楽が来る。人生は忍耐と努力が大事」 マリア宮城 バートラフ(対馬丸撃沈事件生存者)

≪今年はあの悲劇からちょうど70周年の節目に当たります。
大東亜戦争の敗色が濃厚となりつつあった昭和19年8月21日、民間人を疎開させるため沖縄県那覇港から本土長崎へ向かって1つの船団が出港しました。
対馬丸はじめ3隻の輸送船と2隻の警護用軍艦です。
翌22日22時12分、トカラ列島に属する鹿児島県悪石島の北西10キロ地点を航行中、
米軍潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け、対馬丸は12分で沈没。
乗船者1661名のうち、1508名もの方々が無残にも命を落としたのです。
事件直後、軍当局は箝口令を発令。友人はもとより家族にも話すことは許されません。
そのため、対馬丸撃沈事件が世に知れ渡ったのは戦後しばらく経ってからのことでした。
私が自らの体験を語り始めたのはいまから約40年前。
以来84歳となったいまもなお、居住するカリフォルニア州ノバトの教会を中心に、
人間いかに生きるべきかということを語り続けています。
平和で豊かな生活を享受している最近の子供たちを見ていると、苦を避け自分の思いどおりにしようとする
傾向が強いように感じます。
しかし、若い頃にそんな人生を送っていては将来後悔することは明々白々です。
苦の後に楽が来る。ゆえに、人生は忍耐と努力が大事──。
これは私があの悲劇を潜り抜けて得た実感に他なりません。
昭和6年、私は沖縄本島の最北端に位置する国頭村に生まれました。
戦時中は毎日お腹を空かせながらも、夢中で過ごしていたことを記憶しています。
あの日私は、祖母、義姉、弟、妹、従兄弟とともに対馬丸に乗船。沖縄県立第三高等女学校2年の夏でした。
その2日前、村の区長と校長先生から「あんたは子供たちの面倒を見てくれ」と頼まれ、
訳も分からず那覇港行の船に乗せられました。
あまりにも突然のことだったため、着の身着のままの状態です。
対馬丸は3隻の中で最大の輸送船でしたが、船員の話によると、老朽化しておりエンジンの馬力が一番弱いとのこと。
一抹の不安を抱えながらの出発となりました。
2日目の夜。幼い頃から霊感が強かった私は、「今晩危ない」と直感。
船室に寝ていた人たちを片っ端から起こし、「甲板に上がってください」と叫んで回りました。
ただ、14歳の小娘の言うことですから大半の人は聞く耳を持ちません。
私は家族と甲板に上がりました。真っ暗闇の中、恐怖に怯えながらも、3時間以上はそこにいたでしょうか。
荒波の飛沫と強風、降りしきる雨がどんどん体力を奪っていきます。
緊張と疲労のせいか、知らぬ間に眠りについてしまいました。
「ドーン!!」
鳴り響く轟音と同時に船体が大きく揺れ、私は目を覚ましました。
その数秒後、再び船体に大きな衝撃が加わると、船上の煙突が火を吹きながら倒壊しました。
四つん這いになって震えていると、さらに3発目の魚雷が命中。鋭い鉄の破片が身体に突き刺さります。
私は沈んでいく対馬丸から荒波に飛び込みました。
とにかく無我夢中だったため、後のことはあまり覚えていません。
気がつくと溺れかけていた私のもとに、不思議と筏が近づいてきました。
それを必死に手繰り寄せ、何とか溺死を免れたのです。
ところが、安堵したのも束の間・・・≫
 その後人食いサメの大軍に襲われそうになりますが、奇跡がおき、5日目に発見されて一命を取り留めたのだそうです。 

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