杉山龍丸という人物をご存じでしょうか。
インドで「緑の父」と尊敬される日本人ですが、その名前や功績は殆ど知られていないと思います。
私財を投じ、不毛の地と言われたインドに植林し、稲作や農作物ができる土壌に変え、多くのインド人を飢餓から救いました。
「グリーンファーザー・杉山龍丸」の感動的な記事(ご子息の杉山満丸氏の記事)があったので紹介します。
≪父・龍丸が初めてインドを訪れたのは昭和37年、43歳の時でした。
数か月にわたりインド国内の現状をつぶさに見て歩きました。
同年12月、パンジャップ州の総督と面会した際、「インドの生活を豊かにするためには どうしたらいいか」という質問に対し、龍丸は「木を植えることです」と答えます。
当時、インドは食糧不足で、街には物乞いの人が溢れ、餓死者も後を絶たない状況だったのです。
原因はインドの砂漠化でした。インドは古代より森の木を切り倒し文明を開いてきたため、土地がやせ、大地の水がなくなり、地面が乾燥し、不毛の地となってしまっていたのです。
龍丸はパンジャップ州の植林事業の指導を引き受けることになりました。
周辺の地形を調べると、首都デリーからアムリッツァル市までの約470kmの国際道路は北側のヒマラヤ山脈と並行していることに気づきます。この道路に沿って木を植えていけば根が地下に壁のようなものをつくり、そこにヒマラヤに降った雨を溜めることができ、
大地に水分が蓄えられ、穀物や野菜を育てることができると考えたのです。
植えるのはユーカリにしました。根が深く伸び、生命力も強く、何より成長が早い。
さらに成長すればパルプや建築資材として売れることも魅力でした。
それから間もなくのことです。
龍丸の下にインドで大飢饉が発生したとの連絡が入ります。この飢饉は3年にもおよび、実に500万人もの餓死者が出ました。
「この飢饉を救う方法を教えてください」
インドにいるガンジー翁の弟子たちからの懇願に、龍丸は黙っていられませんでした。
活動資金をつくるため、父の茂丸、祖父の久作から譲り受けた4万坪の杉山農園の土地を切り売りすることに、なんの躊躇もありませんでした。
再びインドへ渡った龍丸は、何百、何千という餓死者の亡骸と、生きるために物乞いする子供たちを目の当たりにし、
「この地獄から一刻も早く 人々を救わなければならない」と、改めて一刻も早く木を植え、森をつくることを誓ったのでした。
ユーカリの植林事業はデリーからアムリッツァルまでの470kmの国際道路沿線両側に、2本ずつ、4m間隔で植えることにしましたが、
当然現地の人たちの協力が必要になります。
最初は突然やってきた日本人の申し出に訝る人たちも多かったことでしょう。
しかし、龍丸の説得により地域の農民たちを巻き込んでの植林事業はスタートしました。
「タツマルは私たちの心と話した」とは、一緒に木を植えた方からの言葉ですが、私心のない龍丸の情熱が言葉の壁を超え、彼らに伝わったのでしょう。
そうして、7年の歳月をかけて470kmものユーカリの並木が完成し、その周辺の土地は水分を含んだ土壌に代わっていきました。≫
それからまだまだ彼の挑戦は続きますが、この辺で・・・。