今日は3.11。3年前のこの日は誰も忘れることはできないでしょう。最愛の家族を突然失った悲しみはどんなんでしょう・・・。私は先月夫を亡くしたけれど、突然ではなかったことがまだ救われます。もっと悲しい思いをした人たちがいる・・と思うと耐えることができます。 今日は地震のあった2時46分に1分間の黙祷をしました。小さい子ども達だから当時を覚えてはいないでしょうが、映像を見たり聞いたりしていると思いますから、風化させないためにも・・・。
今日は、文学博士の鈴木秀子氏の感動の記事があったので、紹介します。どんな出来事でも良いことはあると言うものです。
≪最近、私が主宰するワークショップに、ある韓国人のグループが参加しました。
その中の一人の女性がこういう話をしました。
その方には一人娘がいます。幼少の頃から「この子の音感は群を抜いている」「将来、音楽家になるかもしれない」
と評判が高く、両親は考えた末に地元で有名な先生の下でバイオリンの指導を受けさせるようにしました。
案の定、彼女は目覚ましい成長を遂げ、コンクールの入賞経験を重ね、留学したウイーンの高校、大学では常にトップクラスでした。
成績表が送られてくるたびに気をよくした両親は、彼女の才能をさらに伸ばそう、有名にしようと電話や手紙で激励し続けました。
そうして迎えた卒業試験の日。
試験で一番になれば、それなりの社会的地位が約束されていました。
誰もが彼女がその栄に浴すると信じて疑いませんでした。
しかし、その前日、彼女は突然高熱を出して、本番で楽器が弾けなくなってしまったのです。
それからというもの彼女はすっかり自信を失ってバイオリンを手にしなくなり、たまに弾いても全く音が合わなくなりました。
生きる気力すら失せ、5、6年経った今日も鬱状態にあるといいます。
両親にしてみたら、あれほど期待とお金を投じた夢が消え去り、我が子が鬱になったわけですから、それは大変な苦しみでした。
ワークショップで私は母親に言いました。
「人生はコインの裏表と一緒で、悪いことの中には必ずよいことが隠れているものですよ。 どんな出来事にも必ず意味があるから、
それを一緒に探ってみましょう」
しかし、母親には私の言葉に耳を傾ける余裕などありません。
「よいことなんか絶対にありませんよ。こんな辛いことが他にあるでしょうか。この辛さから逃れ、娘を救ってもらいたい一心で
シスター鈴木に会いに来たんです」
私たちのワークショップでは二人一組となり、相手の体験に耳を傾けた後、一人が
「あなたが体験したその出来事には、 どんなよいことがありましたか」と質問するセッションがあります。
相手がどれだけ「ありません」と繰り返しても、腹にすとんと落ちる答えを引き出すまで、
1時間でも2時間でも、考えるゆとりを与えないくらい立て続けにこの質問を投げかけていきます。
この手法によって頭で分かっていたことが本心で受け入れられるようになるのです。
「嫌なことばかりです」の一点張りだったその母親にも間もなくして変化が表れ始めました。
「そういえば、娘が病気になってから、いつも家にいてくれます。
鬱になっているけれども、 私たち夫婦は大切な娘を失わないで 生きていることができますね」
「娘が熱を出したのも、本当は疲れ果てて音楽から離れたかったのかもしれません。卒業試験にパスして走り続けていたら、自殺していたかもしれない。いま自分たちと一緒にいてくれているのは、大きな喜びだったのですね」
母親はワークショップに来る前、着ていく服を娘さんが選んでくれたことを思い出しました。
音楽家として立派に自立しなくては意味がないと思っていた娘さんが、一人の人間として見た場合、
家族思いの優しさや素直さなど多くの美点を持っていたことに、このワークショップを通してようやく気づいたのです。
と同時に、これまでどれだけ娘さんに完璧を求めて苦しい思いをさせてきたのか、そのことにも思い至りました。
私は母親に対して、娘さんはもちろん、彼女に過度のプレッシャーをかけ続けた自分を決して責めないようにアドバイスしました。
いたずらに後悔するのはなんの益ももたらしません。
それよりも娘さんが病気を通して伝えてくれた人間の本当の幸せを味わうことこそが重要だと思ったからです。
レベルの差こそあれ、生きていると誰もが様々な問題に直面します。
しかし、一見不幸と思える出来事も、それを掘り下げると幸せの種を見つけることができるのです。
辛い出来事に遭遇した時、ただそこから目を背けるだけではなんの解決にもなりません。
その体験を経て初めて見えてくる幸福な世界があることを信じ、現実を受け入れていくことで、
その人の魂は大きな成長を遂げていくのです。≫ 最後は私の為にあるような言葉です。