2014年 6月

すくすくガーデンで遊んだよ!~みかん組編~

2014/06/19

今週、月曜日からオープンしたすくすくガーデン・・・。

工事中からずーっと窓越しに眺めながら楽しみにしていたみかん組さんは、

神社参拝後、ばなな組(2歳児)やいちご組(0歳児)のお友達と、一緒に思う存分遊びました。

全面芝生が張り巡らせてあるので、転んでも安全!!(*^_^*)

くじらの滑り台を何度も何度も滑ったり、

小石をシャベルですくったり、一本橋を渡ったりと・・・。

一番人気はばなな組さん、いちご組さんと一緒に遊んだ砂遊びでした。

そして本日はお弁当デー♪(*^^)v

愛情たっぷりのお弁当を食べる子供たちの笑顔は、どの子もニコニコ顔・・・。

いちも美味しいお弁当を作って頂き、ありがとうございます。m(__)m

これからもいっぱい遊んでいっぱい食べて、どんどん大きくなりましょうね☆

角野:記

ゲリラ豪雨のあとは・・・

2014/06/18

昨日の夕方と、今日の昼ごろにこの近辺だけの集中豪雨がありました。短時間に集中した為、雨水がはけません。園庭はプールのような状態に・・・。(遊んでいる途中からはけてきましたが・・・。)水たまりが多い状態ですが、園庭で遊ばせたい・・という以上児(3~5歳児)担任の提案で、食後に園庭に。出られた子ども達は大喜び。裸足で思い切り発散できたようです。それにしてもすごい雨でした!

初めての・・・♪

2014/06/18

今日はあいにくの雨模様・・・。元気いっぱいのばなな組のお友達、今日はちょっぴり残念顔(>_<)

ではでは・・・・・!!!昨日の満面の笑みを、ご紹介しましょう(^O^)

昨日は初めて、完成したばかりの「すくすくガーデン」で遊んだばなな組さん。いちご組、みかん組の小さいお友達と一緒に、砂場で遊んだり、

滑り台をすべったり・・・、花壇の前のお花にも興味津々。

時間が経つのがあっという間でした♡

ここでは、ばなな組さんが一番大きいお兄さんお姉さん。

小さい子が泣いていれば、シャベルを貸してあげたり、滑り台でも、小さい子を先にすべらせてあげたり。

お兄さんお姉さんの意識も芽生えたばなな組さんでした。

雨が上がったら、またたくさん遊ぼうね!!!

中山:記

ゾーン遊び

2014/06/17

お昼を食べた後のお楽しみ、ゾーン遊びですが最近は、おままごとコーナーに鏡を設置してあげるとドレスアップをし、お姫様になりきりってのお化粧を楽しんでみたり、美容院ごっこで、友達同士で髪の毛をクシで、とかしてあげたりを楽しんでいるようです。年少さんも、お父さんや、お母さんになりきり会話を楽しんでいます☆

 

 

 

 

 

 

 

自由画では、年長さんオリジナルの紙芝居作りに、力を入れているようです。

絵から文章すべて自分たちで考え、完成したら、何人かを連れて、始める前に手遊びをし、それから紙芝居の始まりとなります。その姿は可愛らしい小さな保育士さんのようですよ♡

 

 

 

 

 

 

 

最後の紹介しますのは、「カプラ」というブロックです。

作り方の本もあり、その本を参考に自分たちで考え様々な形を作り完成を目指して友達と協力する姿も見られています。

外遊びだけでなく、室内での遊びも全力で楽しむぶどう組さんです。                 記 櫻井 友子

父の日に因んだ感動実話

2014/06/16

昨日は父の日。人の出会いは一期一会であり、今を完全に燃焼し尽くした生き方ができたらいいと思います。
こんなすさまじい生き方をした1人の若者がいることを教えてくれた記事がありましたので、以下に紹介します。

“今から30数年前の1月21日、富山県の砺波(となみ)という町で、ガンで亡くなった井村和清さんである。
彼は医師であったが、右膝に巣くった悪性腫瘍の転移を防ぐため、右脚を切断した。
しかし、その甲斐もなく、腫瘍は両肺に転移していた。そして昭和54年1月、亡くなったのである。
享年31歳であった。
彼は医師であったから、自分の病状をよく知っていた。だから彼には明日はなかった。
その彼が遺書を残している。
その遺書は『ありがとう、みなさん』と題されている。
彼は2人の子供に「心の優しい、思いやりのある子に育ってほしい」と書き、
「私は今、熱がある。咳きこんで苦しい。 私はあと、いくらもお前たちのそばにいてあげることができない。
 だから、お前たちが倒れても手を貸してあげることができない。 お前たちは倒れても倒れても自分の力で立ち上がるんだ。 お前たちがいつまでも、いつまでも、幸せでありますように。 雪の降る夜に父より」
そしてまた彼は、こんな遺書も残していた。
「ようやくパパと言えるように なった娘と、まだお腹にいる二人目の子供のことを思うとき、胸が砕けそうになります。這ってでももう1度と思うのです。しかし、これは私の力では、どうすることもできない。
 肺への転移を知った時に覚悟はしていたものの、私の背中は一瞬凍りました。
 その転移巣はひとつやふたつではないのです。レントゲン室を出るとき、私は決心していました。
 歩けるところまで歩いていこう。
 その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を置きながら、私は不思議な光景を見ていました。
 世の中がとても明るいのです。
 スーパーへ来る買い物客が輝いてみえる。走りまわる子供たちが輝いてみえる。
 犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が輝いてみえるのです。
 アパートへ戻ってみた妻もまた、手をあわせたいほど尊くみえました」
 「郷里へ戻ると父が毎朝、近くの神社へ私のために参拝してくれていることを知りました。
 友人のひとりは、山深い所にある泉の水を汲み、長い道程を担いできてくれました。
 『これは霊泉の水で、どんな病気にでも効くと言われている。俺はおまえに何もしてやれなくて悲しいので、
 おまえは笑うかもしれないが、これを担いできた』
 彼はそう言って、1斗(18リットル)以上もありそうな量の水を置いてゆきました。
 また私が咳きこみ、苦しそうにしていると、何も分からぬ娘までが、私の背中をさすりに来てくれるのです。
 みんなが私の荷物を担ぎあげてくれている ありがたいことだと感謝せずにはいられません。
 皆さん、どうもありがとう。
 這ってでももう1度戻って、残してきた仕事をしたいと願う気持ちは強いのですが、
 咳きこむたびに咽喉をふるわせて出てくる血液を見ていますと、もはやこれまでか、との心境にもなります。
 どうも、ありがとう。」
 日一日と悪化する病気に、もう猶予はできない。
 ここまでくれば、いつ机に向かうことができなくなるかもしれない。
 とにかく『あとがき』を書くことにした。
 「頼みがあります。 もし私が死にましたら、残るふたりの子供たちを、 どうかよろしくお願い致します。
 私が自分の命の限界を知ったとき、私にはまだ飛鳥ひとりしか子供はありませんでした。
 そのとき、私はなんとしても、もうひとり子供が 欲しいと思ったのです。
 それは希望というよりは、むしろ祈りのようなものでした。
 祈りは通じ、ふたりめの子供が妻の胎内に宿ったのです。
  妻はこれはあなたの執念の子ね、と言って笑いましたが、私はどうしても、妻と飛鳥を、母ひとり子ひとりに
 したくなかったのです。
 3人が力を合わせれば、たとえ私がいなくても、生きぬいてゆける。
 妻がもし艱難に出逢うことがあっても、子供たちふたりが心を合わせれば、細い体の妻をきっと助けてくれる。
 そう信じています」
 そして、彼の死後、「誰よりも悲しむであろう父母を慰めてやって下さい」と頼み、
 「ありがとう、みなさん。世の中で死ぬまえにこれだけ言いたいことを言い、
 それを聞いてもらえる人は滅多にいません。 その点、私は幸せです。 ありがとう、みなさん。
 人の心はいいものですね。 思いやりと思いやり。
 それらが重なりあう波間に、 私は幸福に漂い、眠りにつこうとしています。 幸せです。
 ありがとう、みなさん、 ほんとうに、ありがとう」
 1人の若者が生きることの大事さを教えてくれた生の記録である。
 彼は最後の最後まで、人間万歳を歌いあげたのである。
 最後の最後まで「ありがとう」をいい続けたのである。
 生きるということは1度しかない。リハーサルなんかありはしない。たった1度だけである。
 どうか、この「生きる」ことを大事に大事に生き抜いていただきたい。”