ふるさとだより

不撓不屈

2014/01/20

今月16日、91歳でその生涯を閉じた元陸軍少尉・小野田寛郎さん。
終戦から29年もの間、任務解除の命令が届かなかったため、フィリピン・ルバング島で戦い続けていた小野田さんが帰国したのは
1974年のこと。
その時、小野田さんが見せた直立不動の敬礼の姿はサムライのようだと、日本中に大きな衝撃を与えました。
帰還後、ブラジルで牧場を経営したり,「小野田自然塾」を開くなど精力的に活動。
90歳まで腹筋運動による筋力トレーニングに励んでいたといいます。
小野田寛郎(元陸軍少尉)さんが語った「極限を生き抜く心の持ち方」の記事を紹介します。        

≪・・・30年間で発熱は2回でした。それは仲間が負傷して、介護疲れでちょっと出しただけです。
熱が出たところで、医者も薬もないですから、まずは健康でいることが大事です。
そして健康でいるには頭をよく働かせなければダメです。
自分の頭で自分の体をコントロールする。健康でないと思考さえ狂って、消極的になったりします。
島を歩いていると、何年も前の遺体に会うこともあるんです。
それを埋めながら、「早く死んだほうが楽ですね」と仲間に言われ、本当にそうだなと思ったこともあります。
獣のような生活をして、あと何年したらケリがつくか保証もないですし、肉体的にもそういつまでも戦い続けるわけにもいかない。
いずれはこの島で死ななきゃいけないと覚悟しているので、ついつい目の前のことに振り回され、
「それなら早く死んだほうが……」と思ってしまう。
結局頭が働かなくなると、目標とか目的意識が希薄になるんです。
──(しかし、最終的にはそのお仲間にも 先立たれお一人になられましたよね。
  たった一人の戦いはまた別のつらさがあったでしょう。)ー
よく孤独感はなかったかと聞かれましたが、僕は孤独なんていうことはないと思っていました。
22歳で島に入りましたが、持っている知識がそもそもいろいろな人から授かったものです。
すでに大きな恩恵があって生きているのだから、決して一人で生きているわけではないのです。
一人になったからといって昔を懐かしんでは、かえって気がめいるだけですから、一人の利点、それを考えればいいんです。
一人のほうがこういう利点があるんだと、それをフルに発揮するように考えていれば、昔を懐かしんでいる暇もなかったです。
(中略)
自然塾の敷地には「不撓不屈」と書かれた石碑があります。
僕は日本の子どもたちには、一度目標を持ってことに立ち向かったら、簡単に諦めない、執念深く、しぶとく、くじけずに頑張ってほしい。
そして誇りを持って、優しい日本人であってほしい。
その願いを込めて、不撓不屈の文字を刻みました。
それは僕自身が貫いてきた人生の信条であり、座右の銘でもあります。≫

笑うことができるのは人間だけ

2014/01/17

 私の好きな絵本の一つに、『もりのなか』があります。『またもりへ』というのは最近知りました。『もりのなか』の続きのような・・・。みんな得意なものを披露しあって、それぞれに認めてもらえて・・・。でも、どんなに頑張っても笑うことは人間にしかできないこと。 当たり前のことですが、“笑うこと”は人間しかできない特技。ならば、これをしなかったら損です。笑いはその場の雰囲気も良くするし、免疫力も上げるし、一日一笑をしないと・・・と再確認できる絵本です。

講演会のお知らせ

2014/01/16

今日、市役所の方が見えて、写真のようなチラシを持って来てくれました。

消費生活市民講座 テーマ・・・テレビでは教えてくれない「食品表示」のうそ?ほんと?

と題して、食品問題のプロフェッショナル 垣田達哉氏(ビートたけしのTVタックル・世界一受けたい授業・そうだったのか!学べるニュース等に出演)が 食に関する諸問題を楽しい話術で伝えてもらえそうです。関心のある方はいかがですか? 託児も先着15名に限りあるようです。ポスターを玄関に掲示し、チラシも置いておきます。ご自由にどうぞ・・・。

★下妻市主催  2月16日(日) 13時会場 13時半開演  下妻市千代川公民館 小ホール

今日は、以上児の子ども達が、日当たりが良くなった乳児室の前のキンカンを食べている光景が可愛かったので、写真を撮ってみました。結構酸味が強いですが、みんなで食べるとおいしいのか、競い合って取っていたので、お蔭で下の方はなくなってよかったです。柚子もキンカンも上の方のものは、まだまだたくさん残っています。もったいないのですが~。とげがね~・・・・。

分かち合い

2014/01/15

かつてアメリカの州知事は白人ばかりがその地位を占めていました。
そんな中、1974年に日系人として全米初の州知事となったジョージ・アリヨシ氏。
新たな道を拓いてきたアリヨシ氏が初めて両親の母国・日本を訪れたのは第二次世界大戦後、間もなくのこと。

そこで出会ったある靴磨きの少年との「感動のエピソード」を紹介します。
“分かち合い”の精神を教えてくれた靴磨きの少年 ・・・ ジョージ・アリヨシ(第3代ハワイ州知事)
≪私が最初に日本の地を踏んだのは1945年、第二次世界大戦が終わって間もなくのことでした。
アメリカ陸軍に入隊したばかりの頃で、焼け残った東京丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしてGHQ(連合国軍総司令部)の通訳としての
活動を行ったのです。
 私は日系アメリカ人です。
両親はともに九州の人で、福岡出身の父は力士を辞めた後に貨物船船員となり、たまたま寄港したハワイが好きになってそのまま定住した、という異色の経歴の持ち主。ここで熊本出身の母と出会って結婚し私が誕生しました。
私は高校を出て陸軍情報部日本語学校に学んでいたことが縁で、通訳として日本に派遣されることになりました。
東京で最初に出会った日本人は、靴を磨いてくれた7歳の少年でした。
私は思わず、「君は子供なのに、 どうしてそういうことをやっているの」と質問しました。
少し言葉を交わすうちに、彼が戦争で両親を亡くし、僅かな生活の糧を得るためにこの仕事をしていることを知りました。
その頃の日本は厳しい食糧難に喘いでいました。それに大凶作が重なり1千万人の日本人が餓死すると見られていました。
少年はピンと姿勢を伸ばし、はきはきした口調で質問に答えてくれましたが、空腹であるとすぐに分かりました。
兵舎に戻った私は昼食のパンにジャムとバターを塗ってナプキンで包み、他の隊員に分からないようポケットに入れて少年のもとに走り、そっと手渡しました。
少年は「ありがとうございます。 ありがとうございます」
と何度も頭を下げた後、それを手元にあった箱に入れました。
口に入れようとしないことを不思議に思って、「おなかが空いていないのか」と尋ねると、彼はこう答えたのです。
「僕もおなかが空いています。 だけど家にいる3歳のマリコも
 おなかを空かせているんです。 だから持って帰って一緒に食べるんです」
私は一片のパンをきょうだいで仲良く分かち合おうとする、この少年に心を揺さぶられました。
この少年を通して「国のために」という日本精神の原点を教えられる思いがしたのです。
「いまは廃墟のような状態でも、 日本人が皆このような気概と心情で生きていけば、この国は必ず逞しく立ち直るに違いない」
そう確信しました。
果たしてその後の日本は過去に類のないほど奇跡的な復興を遂げ、世界屈指の経済大国に成長しました。
通訳として日本に滞在したのは僅か2か月です。
しかし、私は今日に至るまでこの少年のことを忘れたことがありません。
日本に来るたびにメディアを通して消息を捜したものの、ついに見つけることはできませんでしたが、
もし会えることがあったら、心からの労いと感謝の言葉を伝えるつもりでいます。≫

今、一つの食べ物を兄弟で分かち合ったり、一つのおもちゃを兄弟で共有するということを、どれだけの方がしているでしょうか・・・。

無農薬野菜

2014/01/14

昨年のバザーの際、園庭の一角で野菜の販売をしていた“パチャママ農園”さんを覚えていますか?彼の無農薬にこだわる農法を応援したいと思っています。下妻市内なので、“地産地消”の面でも理想的です。その上、EMにも関心を持ってくれているので、EM栽培の野菜が食べられるようになるのもそう遠くはないことを信じています。

彼は海外ボランティアを経験されていて、そこでの体験が多く生かされているのだろうと思います。そういうことから次のチラシを作成していますので、紹介するとともに「無農薬野菜注文票」を保育園玄関(ドラゴン亭申込みノート付近)に置きますので、関心のある方はご自由にお取りください。私たちの身体は食べたものでしか作られません。できるだけ添加物や農薬は避けたいですね。

お野菜がダメになったら、日本もダメになると思う。お野菜は、今も“成長”を続けています。自然の時の流れだけに任せて成長させる、何百年前と同じ作り方。種をまき、新しい生命が誕生し、雨にも風にも負けずすくすくとたくましく成長を遂げます。一年に一度しか作れない。手間も時間もかかる。農家としては、それだけに、覚悟がいる。でも。パチャママ農園は、思うのです。本当においしいお野菜を作らなければ、日本から、食卓から、お野菜が忘れ去られてしまう。何百年もかけられて作られてきたそのお野菜のおいしさを信じ、私たちは化学肥料無使用、農薬も使用せず作ります。パチャママ農園は頑張ります。≫