ふるさとだより

今できることに目を向ける

2014/08/12

「声を失っても伝えたいこと」
児玉典彦(下関市立川中中学校校長)氏の記事を以下に紹介します。

《下咽頭がん。これが医者から告げられた病名でした。
聞けば喉にできた悪性の腫瘍が進行していて、完治する確率は数十%だというのです。
呆然とする私を前に、医者は2つの治療法を提示しました。
1つは手術、もう一つは放射線治療です。
説明によると、手術をすれば命が助かる可能性は高まるが、
声帯を除去するために声を失う。
一方、放射線治療であれば声は残るが生存率が低くなる、というのです。
声を失う。私はそのことに大きなショックを受けました。
当時の私は声帯を除去しても声を出せる方法があるとは知る由もありません。
つまり手術を選べば必然的に話すことができなくなるので、
教師を辞めなければならないと考えたのです。
しかし、23年間にわたる教師生活を振り返ると、
その決断を下すのはあまりに辛く耐えがたいものでした。
* *
附属病院でがんを宣告された帰り道、私の頭の中は迷いと苦悩が渦巻いていました。
いっそのこと、がんのことは誰にも告げずに仕事を続け、
命が尽きるまでやれるだけやればいいじゃないかという考えに傾きもしました。
しかしそれはあまりに自分勝手で家族に申し訳がたたないので、
放射線治療にすべてを託そうと思い至ります。
家に戻ってすぐに妻と2人の子供を部屋に集めると、
私はゆっくりとこれまでのことを話し始めました。
そして精密検査の結果はもちろん、示された2つの治療法のことを話した上で、
「私は放射線治療をやってみようと思う」と伝えました。
すると突然、大学4年生になる長女の目から
ボロボロボロボロ涙がこぼれ落ちると、嗚咽する声が部屋にこだましました。
そして顔をくしゃくしゃにして泣きながら、
「お父さん、どんな姿になってもいいから生きていて」と私に頼むのです。
それも何度も何度も。
この時、私の心理状態はとても複雑でした。
声を失いたくないという思いに加えて、手術に対する恐怖心が私を支配していたのです。
医者の説明によれば、この手術は決して簡単なものではありませんでした。
手術に要する時間は10時間以上で、
声帯を含めた喉と食道を繋ぐ部分を全部取り除いた上で、
開腹して取り出した腸の一部を使って食道を再建するというものです。
自分はどうなってしまうのだろうかという思いが、私を頑なにしていたのです。
しかし娘の涙をじっと見ているうちに、私はこの子のために生きなければいけない、
そのためにも生きることを優先させようと決意しました。
自分のことばかりを考えていた私に、娘の涙が一筋の光を与えてくれました。
自分以外の誰かの幸せのために頑張ろうとした時、
乗り越えられないと思っていた壁を残り越えられることを、私はこの時に教えられたのです。
* *
それからひと月後に行われた手術は16時間にも及びましたが、無事に成功。
ただし、リンパ節が破裂してがん細胞が他の部位に転移している可能性があったため、
右肩から首にかけての筋肉をごっそりと切除されるなど体への負担は相当のものでした。
術後は麻酔で3日間眠らされ、その後1週間は身動き1つできません。
肉体的苦痛で眠れない日が続き、何度か幻覚が見えたこともありました。
ある程度回復したところで、がん細胞が他にも飛び火している可能性がまだ残っているために、医者の勧めもあって抗がん剤治療と放射線治療も行われ、
結局すべての治療を終えるまでに6か月を要しました。
その間体重は10キロ以上落ち込み、以前は誰が見ても体育の先生のようだった体格は
見る影もなくなってしまいました。
こんな体で果たして職場に戻れるのだろうかと不安になったものです。
* *
退院後、私はすぐに赴任先の校長のところに向かいました。
教頭から降格してもらい、特別支援学校へ行かせてくれるよう
筆談を交えてお願いするためです。ところが校長は首を縦に振りませんでした。
それどころか私にこう語り掛けたのです。        「あなたの経験は特別支援学校よりも普通学校でこそ役に立つのではないでしょうか。勇気を出して、普通学校に戻って下さい。」こう校長が私の背中をポンと押してくれたのでした。

それから校長に就任し、特別授業として「道徳」の授業を人工喉頭器を使って教壇に立っています。私だからこそ話せることを、生徒たちに伝えています。命の尊さ学ぶことの大切さのほかに「自分の為にだけ生きようとすると行き詰るが、自分以外の人の為にならば思いがけない力が出る。だから自分の幸せではなく、人の幸せのために生きる人になってほしい。」と。・・・・》                                               失ったものに目を向けるのではなく、今できることに目を向けるってすばらしいことですね。

 

省エネ対策

2014/08/11

台風一過。また暑さが戻ってきてしまいました。当地は通り道から外れましたが、三重・和歌山・香川の友人に被害の安否を確認して安心したところです。

扨て、当園では省エネ対策として、電気の消費量が子どもでもわかるような装置を設置して、日頃から節電を心がけています。が、この暑さでは、エアコンを使わないわけにはいきません。熱中症対策としてもエアコンは必須です。しかし、スチームコンベクション等と共にエアコンをフル稼働させると、装置を設置している会社から「電力がオーバーしそうです。」と電話が入ってきてしまうのです。しかも1日に何度もかかってくるので、有り難い反面、煩わしさを感じていました。どうしたらよいか思案しているところへ、たまたまその会社から来園した方が、「室外機に日除けを作ってやるといいですよ・・」と言うので、早速お抱え大工さんに写真の様な日除けを作ってもらいました(室外機は、西日がカンカンにあたるところにあるのです。)。凄い!効果てき面でした!設置してもらってから、一度もあの煩わしい電話は入ってきていません。いつも見えるところだけ気にしていましたが、見えないところにも気を配らないといけなかったことを反省しています。・・・因みに、室外機に水をかける方法もあるそうですが、塩素入りの水の為、長い間には故障の原因になるとか・・・。

平和の鐘 一振り運動

2014/08/08

昨日は早くも立秋。残暑お見舞い申し上げます・・となりますね。玄関の絵手紙も暑中お見舞いから、残暑お見舞いに張り替えたところです。立秋になったとたんに、少し凌ぎやすくなりましたが、今日は10時半頃から雨が降り出してしまい、集会は30分遅れで行いました。11時に参加して下さった保護者もいらしたのに、雨の為、急な時間変更をして申し訳ありませんでした。

年中児・年長児・学童児83名、スタッフ7名総勢90名。趣旨説明→黙とう→『ピカドン』絵本→鐘一振り→“花は咲く”合唱。   趣旨は次の通りです。     ①広島・長崎の犠牲者を追悼すること。②チェルノブイリ、福島原発事故のように、被ばく者・犠牲者を出さないこと。③長崎を最後の核兵器による被爆地にと誓うこと。④この歴史的一瞬に平和を願って一振りの鐘を鳴らすこと。         世界の恒久平和を祈りつつ・・・。

 

今週の午睡前読み聞かせは・・・

2014/08/07

今から69年前の8月6日午前8時15分広島に、9日午前11時02分には長崎に原子爆弾が投下されました。そんな悲惨な戦争は絶対におこしてはいけないことを子ども達に伝えたくて、毎年この時期にこれらの本を(3歳以上の子ども達に)読んでいます。ひろしまについての絵本は結構あるのですが、長崎のものを生憎持ち合わせていなかったので、先日、「平和の鐘ひと振り運動」言いだしっぺの鶴文乃さんから『ピカドン』をお借りして、カラーコピーさせていただきました。子ども達は理解できるかどうかわかりませんが、静かに見てくれています。

明日は、拝殿近くの“鐘つき堂”前で、「平和の鐘ひと振り運動」を行います。本当は9日にやるべきところですが、土曜日ですと、出席予定児が少ないので、明日(8日・金)実施します。投下のあった時間(11時02分)に合わせて、年中児・年長児・学童児で行います。参加は自由ですので、保護者の方、一般の方もご都合のつく方はお越しいただき、平和の鐘を鳴らしましょう!

年中・年長児の午前午睡は致しません。が、午後に15分くらいのリラックスタイムを取る予定です。

 

贈り物

2014/08/06

今日は保護司の粟野秀武さんが、子ども達のためにSL(D51)をプレゼントしてくださいました。線路の上をリモコンで走り、走る音もするし、ライトも点くんです。貨物車や石炭車も連結できます。

止まったり、走ったり、バックしたり、自由自在・・・。粟野さんは、「下妻駅~」で止め、「大宝駅~」で止め、「騰波ノ江駅~」で止め、「お財布忘れました~」でバックさせ・・・。D51をユーモアを交えて楽しく走らせてくれました。ばななさん以上の子ども達はみんな大興奮でした!  これからは時々午後のゾーン遊びに加えていきます。    粟野さん!素敵なプレゼントをありがとうございました。

それからもうひとつの贈り物。昨日喜寿を迎えられたという茨城高専名誉教授の横瀬隆雄氏は、つくばね詩人横瀬夜雨についての第一人者です。出来立てホヤホヤの横瀬氏著『評釈 横瀬夜雨』を届けてくださいました。(横瀬孝雄氏は近隣の大串在住で、写真右の方です。)

横瀬夜雨は、大宝小学校の校歌はじめ、下妻東部中運動会で女子生徒定番の踊り「お才」などはお馴染みです(私も東部中時代踊りました。)。夜雨は幼少期にクル病に冒され、波乱万丈の生涯の中で詠んだ「神も仏も」「やれだいこ」「野に山ありき」などは特に有名です。明治期には、大宝や騰波ノ江は文学的に非常にレベルが高く、北原白秋等の著名人も夜雨のもとに集まっていたといいます。このような下妻の文学、文化に触れることもいいのではと思います。ご希望の方はスタッフまで。