「声を失っても伝えたいこと」
児玉典彦(下関市立川中中学校校長)氏の記事を以下に紹介します。
《下咽頭がん。これが医者から告げられた病名でした。
聞けば喉にできた悪性の腫瘍が進行していて、完治する確率は数十%だというのです。
呆然とする私を前に、医者は2つの治療法を提示しました。
1つは手術、もう一つは放射線治療です。
説明によると、手術をすれば命が助かる可能性は高まるが、
声帯を除去するために声を失う。
一方、放射線治療であれば声は残るが生存率が低くなる、というのです。
声を失う。私はそのことに大きなショックを受けました。
当時の私は声帯を除去しても声を出せる方法があるとは知る由もありません。
つまり手術を選べば必然的に話すことができなくなるので、
教師を辞めなければならないと考えたのです。
しかし、23年間にわたる教師生活を振り返ると、
その決断を下すのはあまりに辛く耐えがたいものでした。
* *
附属病院でがんを宣告された帰り道、私の頭の中は迷いと苦悩が渦巻いていました。
いっそのこと、がんのことは誰にも告げずに仕事を続け、
命が尽きるまでやれるだけやればいいじゃないかという考えに傾きもしました。
しかしそれはあまりに自分勝手で家族に申し訳がたたないので、
放射線治療にすべてを託そうと思い至ります。
家に戻ってすぐに妻と2人の子供を部屋に集めると、
私はゆっくりとこれまでのことを話し始めました。
そして精密検査の結果はもちろん、示された2つの治療法のことを話した上で、
「私は放射線治療をやってみようと思う」と伝えました。
すると突然、大学4年生になる長女の目から
ボロボロボロボロ涙がこぼれ落ちると、嗚咽する声が部屋にこだましました。
そして顔をくしゃくしゃにして泣きながら、
「お父さん、どんな姿になってもいいから生きていて」と私に頼むのです。
それも何度も何度も。
この時、私の心理状態はとても複雑でした。
声を失いたくないという思いに加えて、手術に対する恐怖心が私を支配していたのです。
医者の説明によれば、この手術は決して簡単なものではありませんでした。
手術に要する時間は10時間以上で、
声帯を含めた喉と食道を繋ぐ部分を全部取り除いた上で、
開腹して取り出した腸の一部を使って食道を再建するというものです。
自分はどうなってしまうのだろうかという思いが、私を頑なにしていたのです。
しかし娘の涙をじっと見ているうちに、私はこの子のために生きなければいけない、
そのためにも生きることを優先させようと決意しました。
自分のことばかりを考えていた私に、娘の涙が一筋の光を与えてくれました。
自分以外の誰かの幸せのために頑張ろうとした時、
乗り越えられないと思っていた壁を残り越えられることを、私はこの時に教えられたのです。
* *
それからひと月後に行われた手術は16時間にも及びましたが、無事に成功。
ただし、リンパ節が破裂してがん細胞が他の部位に転移している可能性があったため、
右肩から首にかけての筋肉をごっそりと切除されるなど体への負担は相当のものでした。
術後は麻酔で3日間眠らされ、その後1週間は身動き1つできません。
肉体的苦痛で眠れない日が続き、何度か幻覚が見えたこともありました。
ある程度回復したところで、がん細胞が他にも飛び火している可能性がまだ残っているために、医者の勧めもあって抗がん剤治療と放射線治療も行われ、
結局すべての治療を終えるまでに6か月を要しました。
その間体重は10キロ以上落ち込み、以前は誰が見ても体育の先生のようだった体格は
見る影もなくなってしまいました。
こんな体で果たして職場に戻れるのだろうかと不安になったものです。
* *
退院後、私はすぐに赴任先の校長のところに向かいました。
教頭から降格してもらい、特別支援学校へ行かせてくれるよう
筆談を交えてお願いするためです。ところが校長は首を縦に振りませんでした。
それどころか私にこう語り掛けたのです。 「あなたの経験は特別支援学校よりも普通学校でこそ役に立つのではないでしょうか。勇気を出して、普通学校に戻って下さい。」こう校長が私の背中をポンと押してくれたのでした。
それから校長に就任し、特別授業として「道徳」の授業を人工喉頭器を使って教壇に立っています。私だからこそ話せることを、生徒たちに伝えています。命の尊さ学ぶことの大切さのほかに「自分の為にだけ生きようとすると行き詰るが、自分以外の人の為にならば思いがけない力が出る。だから自分の幸せではなく、人の幸せのために生きる人になってほしい。」と。・・・・》 失ったものに目を向けるのではなく、今できることに目を向けるってすばらしいことですね。