2013年 5月

夫婦は魂を磨くための出会い

2013/05/17

今年の伊勢神宮は、20年に一度の式年遷宮の年です。パワースポットでもあるので、若い人達の間でもお伊勢参りの人気は高いようです。その「いせ(伊勢)」というのは、「いもおせ(妹背)」なのだそうです。「いも」は妻、「おせ」は夫のことです。「いもおせ」、それがつまって「いせ」になったといいます。

元伊勢道場長の中山靖雄氏は彼の著『すべては今のためにあったこと』で、次のように書いています。

【私たちは今こうしてここに生まれてきているわけですが、古来ずっと続いてきた夫婦がなければ、生まれることはできませんでした。「いもおせ」つまり、「夫婦」が、命をつなげてきたことで、私たちは今ここに生をうけているのです。

実は、夫婦というものは、お互いの魂を磨くために出会っています。思いがけない心を湧かせ合い、それに気づきお互いが奇麗になっていくというご縁なのです。

夫婦はいっぱい喧嘩して、いっぱい仲直りすればいいのです。喧嘩は何のためにするのかと言ったら、仲良しになる為なのですから。そして喧嘩するたびに近くなっていって、最後は二つでひとつになって天に帰るのです。】

お互いの魂を磨くため…というところが素晴らしいですね。けんかして、仲直りをしようとしても、心のどうにもならない世界があると思います。だからこそ、私たちは心を磨いて修める努力をしていかなければならないと思うのです。

何に見える?(ぶどう組)

2013/05/17

最近日中の気温が25℃を越える暑さになりましたが、ぶどう組の子どもたちは元気いっぱい!!

「今日も半袖で来たよー」といつもお話ししてくれます。

朝の雑巾がけの様子です。 写真がブレてしまうほど一生懸命取り組んでいます♪

そして運動遊び後の指先の活動で作った「ちぎり絵」を今日はご紹介します。

画用紙に折り紙をちぎり、のりで貼ります。

貼り終わったらマーカーで絵を描いて出来上がりです。

海の中のくじらや洋服などちぎって貼って描いて…と簡単なようで難しいちぎり絵でしたが思い思いの色々な作品が出来上がりました(^○^)

記:秋葉

緑と花がいっぱい

2013/05/16

写真は、事務室前から望んだ園庭です。手前のパンジーだけは“花のボランティア団体”の方に頂いたものですが、それ以外の殆どは、苅部ともえ保育士の御主人が、種から育て(昨日はカンパニュラをたくさんいただきました。)仕立ててくれています。もちろん、玄関にもお花がいっぱいです。

樹木や花は、本当に気持ちを癒してくれます。オーストラリアの中学校で、校庭に所狭しと植樹をしたところ、いじめや荒れが激減した・・・という記事を読んだことがありますが、誰でもうなずけるところだと思います。

大事な幼児期を過ごす子ども達の為にも、緑の多い環境を整備したいです。ともえさんの御主人、いつもありがとうございます。

あさがおの観察(*^_^*)

2013/05/16

5月7日に年長さんがあさがおの種をまきました。

朝登園すると、お水をあげたり、とても面倒見良く育てています。

あさがおの成長がとても気になる年長さん・・・

そこで、あさがおの観察を始めることにしました♪

絵を描いてみたり、「小さな芽が出たよ」と、日々あさがおが成長していく様子をよく見て、記録をしています。

お花が咲いたときの子どもたちの喜ぶ顔を見られるのが待ち遠しいですね(^o^)

記:小島

母の日に出会った作文

2013/05/15

かつて森信三先生が「日本教育界の至宝」と称えた伝説の教師がいました。 その人の名は東井義雄(1912~1991年)氏。 師範学校卒業後、故郷である兵庫県で 小中学生の教育に当たり、その生涯を全うされた方です。

一昨年この講演集『自分を育てるのは自分』に出逢い、先週『子どもの心に光を灯す』を読み、母の日にちょうど次に紹介する生徒の作文に出会ったので紹介します。

「父母と教師は今何をどのように」
「父親は何をなすべきか 母親は何をなすべきか」 という2つの講演が、様々なエピソードを交えながら東井氏の口調そのままに収められています。心に響く内容です。     *        *        *
 だいぶ前になりますが、全国の小学校の子ども達から、「お母さん」という作文を集めたことがございます。
 その時に、横須賀市の沢山小学校の、浦島君という1年生の男の子の作文が入選しました。
 ちょっとそれをお聞きください。
『ぼくのむねの中に』
“「おかあさん、おかあさん」 ぼくがいくらよんでもへんじをしてくれないのです。
 あのやさしいおかあさんは、もうぼくのそばにはいないのです。
 きょねんの12月8日に、 かまくらのびょういんで、 ながいびょうきでなくなったのです。
 いまぼくは、 たのしみにしていたしょうがく一ねんせいになり、 まい日げんきにがっこうにかよっています。
 あたらしいようふく、ぼうし、ランドセル、くつで、 りっぱな一ねんせいを、おかあさんにみせたいとおもいます。
 ぼくはあかんぼうのとき、おとうさんをなくしたので、 きょうだいもなく、おかあさんとふたりきりでした。
 そのおかあさんまでが、 ぼくだけひとりおいて、 おとうさんのいるおはかへいってしまったのです。
 いまは、おじさんおばさんのうちにいます。 まい日がっこうへいくまえに、 おかあさんのいるぶつだんにむかって、「いってまいります」をするので、 おかあさんがすぐそばにいるようなきがします。
 べんきょうをよくしておりこうになり、 おとうさんおかあさんによろこんでもらえるようなよいこになります。
 でも、がっこうでせんせいが、 おとうさんおかあさんのおはなしをなさると、 ぼくはさびしくってたまりません。
 でも、ぼくにもおかあさんはあります。
 いつもぼくのむねの中にいて、ぼくのことをみています。
 ぼくのだいすきなおかあちゃんは、 おとなりのミイぼうちゃんや、ヨッちゃんのおかあさんより、
 一ばん一ばんよいおかあさんだとおもいます。
 おかあさん、ぼくはりっぱなひとになりますから、 いつまでもいつまでも、 ぼくのむねの中からどっこへもいかずにみていてください。”