ふるさとだより

無農薬野菜

2014/02/06

パチャママ農園の“注文書”の新しいのを玄関に置いておきます。ご利用になる方はどうぞ。

食べ物は大事です。農薬や添加物をできるだけ控える必要があります。いろいろ気を付けていても、目に見えない電磁波の問題もあります。電磁波過敏症なる病(?)もあるようです。ドライヤー、電気毛布、電気カーペット、電磁調理器、電子レンジ、電気自動車・・・・便利なものは、必ず落とし穴があるものです。

ヘレンケラーが尊敬した人

2014/02/04

ヘレンケラーが尊敬した人物・塙保己一についての感動文があったので、紹介します。

≪塙保己一は延享3(1746)年、武蔵国児玉郡保木野(現・埼玉県本庄市)に生まれた。
生家は裕福な農家だったが、5歳の時、思いがけない病魔に襲われる。目が次第に光を失っていったのだ。
母・きよは保己一を背負い、片道8キロの道を一日も欠かさず藤岡(現・群馬県藤岡市)の医師のもとに通い続けた。
なんとしても我が子の目を治したい一念だった。
しかし、保己一は7歳で完全に失明した。さらに、12歳で最愛の母が亡くなってしまう。
保己一は杖を頼りに毎日墓地に行き、母の墓石に向かって泣き続けた。
涙の中で一つの決意が生まれた。江戸に出て学問で身を立てよう。
保己一は耳にしたことはすべて記憶するほどの抜群の記憶力の持ち主だったのである。
保己一の情熱は父を動かした。絹商人に手を引かれ、保己一は江戸に旅立つ。15歳だった。
江戸時代、盲人の進む道は限られていた。
検校(けんぎょう)という役職者に率いられた盲人一座に入り、按摩(あんま)や鍼灸(しんきゅう)の修業をする、
琵琶や三味線の芸能に勤しむ、あるいは座頭金という金貸しの知識を学ぶ、などして世渡りの技能を身につけ、
互いに助け合って生活していく仕組みになっていた。
選べる職業はそれだけだった。
保己一もまた雨富須賀一検校の盲人一座に入門した。だが、保己一の望みは学問である。
悶々とした日々が続き、思い切って師匠の雨富検校に本心を明かす。
「私は学問がしたいのです」。破門覚悟の告白だった。
保己一の幸運はこの雨富検校に出会ったことだった。
「人間、本心からやりたいことに打ち込むのは結構なことだ」と検校はいい、学問することを許されたのである。保己一の目覚ましい研鑽が始まる。目が見えない保己一は誰かに本を読んでもらうしかない。
全身を耳にし、耳にしたことはすべて身につけていく。
盲目の身で学問に励む少年がいる、とたちまち江戸の町の評判になった。
 保己一の真剣な姿に多くの援護者が現れ、ついに当代随一と言われる国学者賀茂真淵の門人になることができた。半年後に真淵は亡くなるが、この半年に六国史などを読破、のちの偉業を築く土台となった。そして、群書類従の編纂を決意する。34歳。666冊、全530巻。ついに群書類従が完成したのは、保己一74歳。その2年後に死去。ヘレンケラーはこう言ったという。「小さいころ私は母に励まされた。日本には幼い時に失明し、点字もない時代に努力して学問を積み、一流の学者になった塙保己一という人がいた。あなたも塙先生を手本に頑張りなさい。」と。…≫   一度聞いたことはすべて身につけていく。・・・聞いたそばから忘れて行ってしまう私とは大違い!

  * * *

その後、保己一はいかにして
大学者への道を切り拓いていくのか。

その人生からいまを生きる私たちが
学ぶべきものとは──。

一足早いひな飾り

2014/01/31

3月2日(日)は下妻市ふるさと博物館にて、午後、ひな祭りのイベントがあります。そこに当大宝保育園、大和保育園、下妻保育園の年長児が参加して、歌をうたったり、ひな飾りの作品を出展することになっています。ですので、一足早いひな飾りができあがりました。(本日ふるさと博物館へ搬送)

また、下妻市の広報誌に当園のお雛様に因んだ作品と年長児が、3月号の“みんなのギャラリー”という欄に掲載されるそうで、その写真を撮りに、市役所総務部・市長公室の担当者が来園されました。  両方とも楽しみにして下さい。

授賞式

2014/01/30

「国旗のある自由絵コンクール」(主催:社団法人国旗協会,後援:神社本庁、日本商工会議所)に、毎年、年中児と年長児が応募しています。全国版ですが、毎年努力賞等の賞を頂いています。今年も見事“銅賞”を年長児のくららちゃんが受賞しました。金・銀・銅賞の作品は、全国の主な神社(明治神宮や内宮等)に期間限定で展示されることになっています。くららちゃん、おめでとう!

あるハガキから

2014/01/29

下妻のダスキンの社長さんは定期的にお手紙を出しています。今回頂いたものに大変感動したので紹介します。社長さんは、32年前に旅先で知り合ったN さんと年賀状のやり取りをずっと続けているそうですが、昨年暮れに喪中の以下のはがきが届いたのだそうです。

≪・・・・・平成23年4月妻K子が子宮がんの手術。K子55歳、私60歳。「還暦の時は身体に気をつけよと言うけど、お前が病気になったなあ」「あなたはやりたいことがいっぱいあるから私が替りに病気になったの。」やさしい言葉に涙が出ました。アートフラワー、木彫りのお盆、お茶や洋裁、テニス、お友達とおしゃべり等々、K子こそやりたいことがいっぱいあっただろうに。   手術後、6回の抗がん剤投与も完了、ほっと一息。薬は飲みながらも家でゆっくり落ち着いた毎日を過ごす。息子のKのアイスホッケーの試合を広島まで応援に行ったり、旅行、ドライブもぼちぼちでき、元気になりました。

24年5月、しゃべりにくい、身体がふらふらするというので検査したら脳腫瘍。1年間辛抱してやっと春が来たかと思いきや、K子と泣きました。ガンマーナイフ手術。脳幹という難しい個所で全部取りきれず。6月、長男Kの結婚式には車いすで出席。アートフラワーの大きなブーケを手作りし花嫁A子さんに贈りました。自宅療養しながらリハビリに通い、手を引いて歩けるまで回復。米粒をこぼしながら食事の用意もできました。頭の中に水が溜まり8月緊急手術。9月帰宅。家では抱いて風呂に入れてやりました。一緒に風呂に入ったのは何十年ぶりでしょうか。背中から抱きしめてやりました。

25年3月入院。離乳食状態の食事を一時間くらいかけてゆっくり食べさせました。やがて、誤嚥しそうなので食事は中止、点滴になりました。しゃべれないけれど手を振り返したり、瞑った目に涙を浮かべたり。一生懸命頑張っていましたが体も弱ってきて、7月1日に亡くなりました。享年58歳。夜半風雨強し。

夕飯を作って待っていても帰りが遅い、面白くないことがあったら八つ当たり等々、自分勝手でわがままな私に32年よく付き合ってくれました。ねぎらう間もなく先に逝ってしまいました。皆さまお世話になりました。ありがとうございました。皆様にはどうぞよいお年をお迎えくださいますよう心よりお祈り申し上げます。≫

他人事とは思えなく、涙が止まりませんでした・・・・。