ふるさとだより

訪問者

2014/05/09

園の玄関には、このオーケストラの人形が飾ってありますが、園舎内にも多くの作品があります。作家は、那須町在住の“さきやみつえ”さんです。市内の“あ~とさろんきくち”さんで、本日から夫婦展が始まるので、いらしたついでに、ご主人と立ち寄って下さいました。丁度、園は午前午睡中で、2交替でお茶の時間でしたので、休憩中の職員と記念の一枚を。

みつえさんは、若い頃から病と闘ってきていますが、そんなことは微塵も感じさせない、底抜けに明るくいつも笑顔を絶やさない方です。たくさんのパワーを頂きました。感謝です。

今日の言葉

2014/05/08

今日はEM米を作っている方が、母親を亡くした職員と私の為に、少しでも気持ちが休まりますように・・・と、こんな素敵なEM栽培のバラを届けて下さいました。心配りに感謝・感激!

“花が咲いている

精一杯咲いている

わたしたちも

精一杯生きよう”   ・・・タイミングよく、102歳で天寿を全うされた故・松原泰道氏(龍源寺元住職)の詩があったので紹介します。

百花繚乱

2014/05/07

先の写真は当園庭です。5月は百花繚乱という言葉通り、種々の花が咲き乱れ、本当に癒されます。例年の如く、苅部保育士の御主人が種から仕立てて下さったものばかりです。奥にもたくさん蕾の鉢が置いてありますが、開花が楽しみです。今日軽トラックで2台分も頂いてきました。本当に毎年毎年感謝です。後の雪のような写真は、八幡宮の“なんじゃもんじゃ”です。新緑とマッチして、とても清々しい気分になれます。昨日は寒かったですが、今日は爽快でしたね。

今日から五月

2014/05/01

五臓六腑で、五月の五臓は「肝(きも)」、六腑は「胆(きも)」に注目です。

胆の機能・・・“胆がすわる”等の表現に見られるように、決断力、行動力を司るそうです。肝と関係が深く、共に助け合って働くとか・・・。

肝の機能・・・肝は精神活動をつかさどり、剛強で気持ちよくのびやかであることを好み、この機能が低下すると、ぼんやりしたり無気力で落ち込みやすくなり、亢進すると興奮したり、怒りっぽくなるそうです。

“気”が通り過ぎると溢れてしまって怒りっぽくなったり、逆に“気”が通らないと気持ちが塞いでしまうそうです。

肝はストレスに弱いのです。・・・ということで、五月は精神的に気を付けるべき季節・・・といえそうです。

昭和の日に因んで

2014/04/30

昨日は昭和の日でした。昭和天皇に思いを馳せながら、昭和天皇一代の料理番として仕えられた谷部金次郎氏の記事を、ご紹介させていただきます。
≪「昭和天皇に仕えた最後の料理番」
 「ぼうやいくつだ、 どのくらいできるんだい?」
――東京オリンピックが開かれた昭和39年の初春、天皇の料理番として有名な、秋山徳蔵さんのこんな第一声で
宮内庁大膳課の面接が始まりました。
当時、私は17歳。
『日銀クラブ』と呼ばれた超高級料亭の料理長でもある厳しい義兄の下で、料理人への道を歩んでいました。
そこでの修業は、新人といえどもただ単にお皿を洗っていればいいというものではなく、 
出汁をとることから魚を下ろすことまで、なんでもやらなくてはなりませんでした。
修業期間は一年半と短かったものの、
普通に料理の勉強をしている人に負けないだけの自信を私は持っていました。
毎年暮れに、宮内庁の新年祝賀会のお手伝いに出向いていたことがきっかけになり、
「宮内庁の大膳課に欠員ができた、若い料理人を探している」と私に声が掛かりました。
どうせ宮内庁職員の食堂だろう。 私は、着慣れないスーツを揃え、宮内庁へ赴きました。
何の連絡もないまま、いつのまにか季節は梅雨になっていました。
半ば諦めかけた頃、宮内庁から採用の通知が届きました。
昭和天皇の食事を作る大膳課和食担当の辞令。
「天皇陛下のお食事なんだから豪華なものに違いない」
「腕によりをかけて勉強して、いい料理をいっぱい作ろう」と意気込んで大膳課に入りました。
ところが、驚いたことにお食事の献立はごくごく一般的な、本当にシンプルなものばかりでした。
大根と白滝を油でさっと炒めて煮た物やほうれん草のおひたしなど、ありふれたお惣菜が中心で、
それはむしろ一般家庭と比べても地味なくらいでした。
食器もいたって質素でした。
「こんな普通のものを作りに来たんじゃない」といささか拍子抜けしたほどです。
料理人として陛下にお会いできる機会はまずありません。
いつも女官さんを通して陛下の感想が私に伝えられました。
ただ、陛下にお仕えした26年間の中で1度だけ直接お目にかかることができました。
菊栄親睦会という、皇族と旧皇族の方々による年に1回の催しの席でのことです。
その頃、私は大膳課に入って5、6年が経っており、陛下のお食事も作り始めていました。
立食形式のそのパーティーで、私は天ぷらの係になりました。
黙々と天ぷらを揚げていると目の前に陛下がお立ちになっていました。
この時初めて陛下に直接こうお声を掛けられました。
「穴子としそを」 「はい、かしこまりました」そう返事はしたものの、頭の中は真っ白。
緊張して手は硬直し、小刻みに震えて、穴子としそがうまく箸で掴めません。
どうにか揚げなくては、と震える右手をおさえるように左手を添えながら、なんとか油の鍋に入れました。
ところが、衣と葉がバラバラになってしまい、見る影もありませんでした。
それでも陛下は天ぷらの出来栄えを気にするご様子もなく、喜んで召し上がってくださいました。
その時、私はその場に倒れそうなくらい力が抜けていました。
戦後生まれの私は、正直なところそれまで陛下を特別な存在と思ったことはありませんでした。
ところがこの日、陛下の穏やかながら威厳のあるお姿に接し、自分はなんと小さい存在なんだと圧倒されそうになったのです。
「生涯この方おひとりのためにお仕えしよう」と誓ったのはこの時です。
陛下は、思いやりに溢れたお方でした。
 例えば人から物をいただかれた時には贈り主の心を無駄にしないような扱い方をなさり、
常に相手の立場に立ってものごとをお考えになっていました。
お食事に関してもご自身のお言葉の影響力を分かっていらっしゃったので、
食べたい物もお言葉にはされませんでした。
 しかし、おいしい時は必ず「おいしかった」と伝えてくださり、一度箸をつけた料理は残さずきちんとお召し上がりになるなど、私たち料理人にも細かい心配りをされていました。
私は、そんな陛下の豊かな人間性にますます惹かれていました。
陛下が倒れられたのは、昭和63年。お食事を吹上御所までお運びした数時間後のことでした。
この時のショックはいまも忘れられません。
陛下が最後に口にされた料理はどのような献立だったのか、いまでも思い出せないくらいです。
それからも陛下のご様態は一向にいい方向には向かわず、大膳課も最悪の事態に備えていました。
 昭和64年1月7日早朝、ついにその時が来ました。
せめて最後のお別れのご挨拶をしたいと、女官さんの後をついて行き、
御簾の向こう側で永遠の眠りにつかれた陛下に深々と頭を下げました。
私の料理に「おいしかったよ」と言ってくださる陛下には2度と会えないと思うと、魂が抜けていくような気がしました。

御大葬が終わり、私は次の行き先も決まらぬまま、大膳課を辞める申し出をしました。
子どもたちはまだ5歳と3歳、家を買ったばかりでローンもだいぶ先まで残ったまま。
しかし、自分がお仕えするのは昭和天皇おひとりのみという私の意志は、決して揺るがなかったのです。
大膳課を辞めた私は、テレビ番組や自宅、大学で料理を教えるようになりました。
仕事は変わっても、おもてなしの心が料理を作る上での原点であるという思いは変わりません。
陛下から学んだ思いやりの心を多くの人に伝えることが、いまの私の使命と思っています。≫